東日本大震災7周年を覚えての礼拝 「記念として語り伝える」

マルコによる福音書 14章3~9節
イザヤ書 52章4~6節

 

 3月11日には、あの時の具体的な体験とも相まっていろいろな思いがあるでしょう。突然の喪失、人間の小ささ、その驕りなどその多くは痛く苦しいことながら、この日は東北にある者に忘れ得ぬ日となりました。

 今日開いた旧約で、預言者はイスラエルに与えられた苦難の歴史を思い起こしています。 4「エジプト」での奴隷の時代、 4「アッシリア」の搾取、そしてバビロン捕囚(5節)…、でもその中で 6「わたしの民はわたしの名を知るであろう」と告げられています。主は民の嘆きにご自身心震わせつつそこにおられるのであり、民は右往左往した後 6「見よ、ここにいる」と宣言される主を見いだすからです。事実、旧約文書の多くはこれら苦難の歴史の中から編まれてきました。

 主イエスが最後の晩餐の場で告げられた「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)との言葉は、十字架に刻まれた主の救いを信仰者が想起し追体験する聖餐の制定語となりました(Ⅰコリント11:23~)。記念するとはただ振り返るにとどまらず、今を生きる私に意味あることとして受けとめることです。

 十字架の数日前、主イエスに只ならぬ様子を感じたのでしょう、一人の女性が 3「純粋で非常に高価なナルドの香油」を主イエスの頭に注ぎかけたとき、主は 9「福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と言われたのでした。忘れ得ぬ震災の出来事においても、私たちはその只中に立たれていた主に出会うことができるでしょう。また今とこれからに意味あることとして、記念することができます。

コメントは受け付けていません。