会津地区新年礼拝

ローマの信徒への手紙 13章11~14節 
イザヤ書 2章1~5節 

 

 新しい年2012年が与えられました。昨年3月11日の震災発生以来、多くの痛み・悲しみ・悩みの中を歩んでいますが、主はそうした只中においでになられたこと、そして平和の十字架を打ち立てられたこと(コロサイ1:20)を仰ぎ“主の年2012年おめでとう”と挨拶を交わしたく思います。

 聖書では“時”を表わす単語が数種使い分けられており、中でも“カイロス”との語はほかの時と取り替えることのできない特別な意味をもった瞬間を指します。ローマ13:11~で著者パウロはこの語を用い、私たちが歩む現実の時の意味は神の歴史に照らしてこそわかるのだと述べ、歴史が神の完成に到ることを知っている私たちは「闇」と見える中をも「日中を歩むように」進もうではないかと語っています。

 誕生の時・出会いの時・人生を完成して召される時…、私たちもそれぞれ大切なカイロスをもっていますが、この世界を大切に思うがゆえに神ご自身が人となって降られたクリスマスの出来事こそ最大のカイロスなのだと聖書は語ります。いま私たちはこの新年に与えられた特別な意味を訊ねて、この礼拝に集ってきました。そして思うのです、昨年の3月11日もカイロスだったのではないかと。あの時をほかの時と取り替えることはできないからです。

 あのとき私は、牧師館の中にいました。幼稚園の保育中でしたので、激しく揺れる階段を転げ落ちるように下り、ガラスが破れ砕けた会堂を走り抜け、園舎方面に向かいました。4人の園児は(幼稚園は3月末で休園が決まっており、これが全園児でした)2人の教諭の適切な誘導によって、前庭中央に避難し地面に伏していました。会堂の塔がねじれるように動いていました。数分後、やっと揺れが収まったとき私は“あぁ大変だったけれどもこれで終わった”と思いました。が、全く愚かなことでした。これは終わりではなく始まりでした。このとき津波に教会員が2名、求道者のお母さんが1名、のみ込まれようとしていたことを私は想像することができませんでした。

 神さまの眼差しと十字架の憐みから洩れるところ・人はないとのパウロの言葉を、私はこのときにも仰ぎたく思います。では、あの時にどういう意味があったのでしょう。答はなかなか与えられず、或いは共通した答はないのかもしれませんが、それを問うことをやめてはいけないのだと思っています。教区の集いでお招きした田中優さんはあの3月11日を、二度と放射能汚染を繰り返さないための転換点としていく夢と責務を抱いていると語られました。当教会のある男性はあの3月11日を経験して、いかなる時にも神さまを仰ぐしかないのだとの決断をしてクリスマスに洗礼を受けられました。そのカイロスの意味は何か。難しい問いですが、これを祈りに託しみ旨を求めつつ、与えられた2012年を歩んでいきたい。そう願います。

 

(2012年1月2日 会津若松教会にて)

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