新年礼拝 「和解と平和の十字架が」

コロサイの信徒への手紙 1章19~23節
イザヤ書 40章27~31節

 

 クリスマス同様、新しい年に際しても“おめでとう”と言えるのかと自問せざるを得ません。が、やはり“おめでとう!”と挨拶を交わしたく思います。なぜなら20「天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物」は主イエスの20「十字架」の憐れみを受け、その20「和解」にあずかっているからです。当時コロサイ教会は、神の力に満たされるにはキリストと結ばれただけでは不十分だと囁く異端の誘惑を受けていました。これに対しこの手紙は、キリストこそすべてを満たしておられる方であって(15~17節等)、その眼差しと働きと臨在から洩れる場所はないのだと力強く語っています。

 一方これを信じようとするとき、神はなぜこんな苦難をも与えられるのかとの問いに悩むことにもなります(24節)。でも今日私たちは、今年3月11日の地震にどういう意味があったのかをそれぞれなお問い考えていかねばならないのではないでしょうか。

 21~22節は、どうにもならない力に組み伏せられ呻吟している世界に主ご自身が身を置かれ命を分け与えられたことを通して、和解と平和が与えられたことを指し示しています。問いになかなか答は与えられず、み旨は明らかになりません。でも、神の目にこの地の今は決して見過ごされていない(イザヤ40:27~)ことを仰いで、今年の歩みを踏み出して行きたいと願います。

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