「勇者の未完」

申命記 34章1~8節
ヘブライ人への手紙 10章19~25節

 

 モーセはイスラエルの民をエジプトの地から救い出し約束の地へと導き上る指導者として、主なる神から召されました(出3章)。幾多の困難を乗り越えて出エジプトを果たした後も、約束の地を目指す荒野の旅は40年に及びました。彼は不満・不信を繰り返す民を叱咤し束ね導く厳然たる指導者であった一方、主なる神に対しては民の罪の赦しをひたすら乞う仲保者でもありました。

 長い旅路を経て、ついに一行は約束の地を目前にした 1「モアブの平野」に辿り着きました。が、モーセは 4「そこに渡って行くこと」は許されなかったのです。それは旅の途中メリバで彼が主に忠実でなかったゆえと語られていますが(民20:12~、申32:31~)、これは罰というより、未完を甘受せざるを得ない人間の姿を現しているように思います。私たちもまた必ずしも目標に達することなく、その途上で歩みを終える存在であるからです。モーセは 1「ピスガの山頂」から約束の地を望み見つつ生涯を閉じたのでした。

 私たちは破れを抱え、未完に甘んじざるを得ない者です。が、そのような者に23「真実」をもって近づかれご自身の犠牲によって執り成してくださった主イエスのゆえに、私たちは安んじて神とまみえることができる、と併せ開いた箇所に告げられています。

 モーセは後継者としてヨシュアを任命し(31:1~)按手しました(9節)。 8「三十日の間…モーセのために喪に服して、その期間は終わった」との言葉には、使命の継承と新たな出発の決意が感じられます。当教会の “旧約聖書を読む会” は1993年から約23年かかって、約半分を読み終えました。ですから2038年に全巻を読み終える計算ですねと言うと笑われる方が多いのですが、これは素敵なことだと思います。ゴールを目指す長い継承の中に確かに位置づけられた私を見いだすからです。聖書の民も今を生きる私たちも、神に伴われその完成を目指す旅路を歩んでいます。

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