「つまずきの石」

ローマの信徒への手紙 9章30節~10章4節
イザヤ書 8章11~15節

 

 32「つまずき」とは順調な歩みに生じる思いがけない失敗であり、普通は避けたいものであるはずです(マルコ4:17、ルカ17:2等)。が伝道者パウロは33「…つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と言うのです。

 十字架の前の晩、主イエスは弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」(マルコ14:27)と予告しました。事実、29「わたしはつまずきません」(同14:29)と言い張っていたペトロはじめ、皆が逃げ去ってしまったのでした(同14:50)。十字架が神の大いなる救いの計画であるなどとは、思いもしなかったからです。

 パウロも当初そう考え、教会を迫害したのでした(ガラテヤ1:13等)。が、回心の出来事を通して、一見無価値に見える十字架こそ 4「信じる者すべてに義をもたらす」救いの業であることを知ったのです。

 弟子たちもパウロもこうした32「つまずき」の経験を経て、破れを抱える自らをも招き救いにあずからせる神の慈愛に出会ったのでした。シオンに置かれた33「つまずきの石、妨げの岩」とは、主イエスの十字架の出来事を指しています。

 大国アッシリアと反アッシリア同盟の狭間の中で動揺するB.C.8世紀のユダ王国にあって、預言者イザヤは力でも12「同盟」でもなく13「万軍の主をのみ」畏れよと説き、もし民が人間の知恵に頼りあらぬ方向に進むのなら主ご自身が14「つまずきの石…妨げの岩」となられると告げました。

 できれば避けたいつまずきにも、それまでの殻を破って新たな地平・進みゆく道を見出せとの主のみ旨が託されているのかもしれません。私たちの思いを超えるみ旨の中を、私たちは歩んでいます。

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