「このような子どもの一人を」

マルコによる福音書 9章30~37節
詩編 131編1~3節

 

 8:31~に続く、主イエスの2回目の受難予告です。しかし弟子たちは32「この言葉が分から」ず、34「誰がいちばん偉いかと議論し合」う有様でした。主イエスに問われて34「黙っていた」というのですから、これがみ旨に沿わないことだと知ってはいたようです。

 そのような中、主イエスは36「一人の子供」を36「彼らの真ん中」に立たせ、37「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われたのでした。ユダヤ人社会において子どもが与えられることは祝福のしるしでしたが、自立できない子どもは無価値な存在でした。主イエスはそうした小さな者を36「真ん中」に迎え37「受け入れる」ことを教えられたのです。

 アメリカのエッセイスト、R.フルガムは著書 『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』 で、“人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々送ればいいか、本当に知っていなくてはならないことを、わたしは全部残らず幼稚園で教わった。人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜学校の砂場に埋まっていた。” と書きました。そうかも知れません。生きるという基本においては、私たちは子どもと変わらないのです。

 その子どものようで小さな私が神の祝福に結ばれるために、主イエスは十字架への道を歩まれました。神の眼差しの前に私たち自身が認められ、受け入れられています。だからあなたがたも互いに受け入れ合いなさい、と主は指し示しておられます。

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