「十字架という栄光」

マルコによる福音書 9章3~8節
出エジプト記 40章34~38節

 34「主の栄光」とは、主なる神がご自身の臨在とその業を顕わされることです。出エジプトの民の間に34「臨在の幕屋」が完成したとき34「主の栄光」が満ちましたが、それはあまりに目映くて(出33:20)直接見ることはできませんでした。栄光を覆う34「雲」と38「火」に導かれて、彼らは約束の地を目指したのでした。

 主イエスが高い山の上で輝く姿に変容され旧約を代表する 4「モーセ」 4「エリヤ」と会談されたというのは、主イエスがキリストの栄光を帯びた方であることを示しています(7節、ヨハネ1:14)。しかし 5「ペトロ」ら弟子が感激に浸る間もなく、主イエスはいつもの貧しい姿へと戻られました。そして十字架の道を進みゆくべく 9「山を下り」られたのです。

 新約聖書でこの「栄光」との言葉を一番多用するのはヨハネ福音書であり、最も繰り返し現れるのが十字架の前の晩に主イエスがなさった“大祭司の祈り”においてです。「父よ、今…わたしに栄光を与えてください」(同17:5)、この「栄光」とは十字架を指しています。なぜ自身の死が「栄光」なのか、それは十字架においてこそ世に対する神の愛が顕されるからです。十字架という栄光、これはおよそ世の常識と食い違っています(Ⅰコリント1:21)。がそこにこそ真実を見、自らも「自分の十字架を背負って」(8:34)この主に従った代々の多くの人がいたことを私たちも知っています。

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