霊南坂教会礼拝 「地震のままにしておくな」

エレミヤ書 31章15~17節
ヨハネによる福音書 11章28~44節

 

 新年礼拝に際し、“おめでとう”と言い交わしていいのかとの戸惑いがありました。昨年の大震災発生以来、東北はなお大きな課題の中を歩んでいるからです。そうした中、主の十字架の憐れみと慰めから洩れる場所はないと告げるコロサイ1:20を開き、それゆえに“おめでとう”と挨拶を交わそうと呼びかけました。

 ただしこのことを信じようとするとき、私たちは恵みと共に課題をも受け取ることになります。なぜこのような震災が与えられるのか、この重い問いにぶつからざるを得ないのです。

 あのとき私は、牧師館の中にいました。幼稚園の保育中でしたので、激しく揺れる階段を転げ落ちるように下り、ガラスが破れ砕けた会堂を走り抜け、園舎方面に向かいました。4人の園児は(幼稚園は3月末で休園が決まっており、これが全園児でした)教諭の適切な誘導によって、前庭に避難し地面に伏していました。会堂の塔がねじれるように動いていました。数分後、やっと揺れが収まったとき私は“あぁ大変だったけれどもこれで終わった”と思いました。が、全く愚かなことでした。これは終わりではなく始まりでした。このとき津波に教会員が2名、求道者のお母さんが1名、のみ込まれようとしていたことを私は想像することができませんでした。

 今日の聖書には、旧約のいにしえの母ラケルの、また主イエスの嘆きと涙が描かれています。十字架の主は今も被災地の「憤り」「涙」(33・35節)を共にされておられることを仰ぎます。加えて、預言者エレミヤは「目から涙をぬぐいなさい」「あなたの未来には希望がある」と語り(16・17節)、主イエスは復活のみ力をもって私たち人間の悲嘆を「神の栄光」(40節)へと変えられました。

 震災の今を忘れないこと、その今を明日へと変えていくこと、こうした務めが私たちにも分け与えられていることを思います。震災は私たちの知恵も技術も力をも崩し、押し流す規模のものでした。涙を希望に、今を明日に変えていくためには、人間を超える導きを仰がねばなりません。その主は私たちと共におられます。

 

(2012年4月29日 霊南坂教会にて)

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