平和主日礼拝 「平和をつくり出す人」

エフェソの信徒への手紙 2章14~22節
エゼキエル書 22章23~30節

 

 主イエスは「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」(マタイ5:9、口語訳)と教えられました。しかし“積極的平和主義”といった言葉のもと軍事力が展開されるような今日にあって、語られる“平和”の意味は一様ではありません。主はこの言葉で何を指し示されたのでしょうか。

 英訳聖書はここに“peacemaker”との語を充てています。辞書を開くと、“調停者、仲裁人”とあります。旧約には、神と民との間で調停をしようとした人物が出てきます。アブラハムはソドムとゴモラのために「あなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」(創18:23)と食い下がりました。出エジプトの指導者モーセも、過ちを犯した民もまた「あなたの民」(出33:13)なのですと旅路に同行を求めました。

 一方、今日開いたエゼキエル22:23~では、主が30「石垣の破れ口に立つ者を…探し求めた」とあります。B.C.6世紀、不正・強奪・抑圧が横行する南王国ユダにあって、その30「破れ口に立」って繕う者を求めたけれども30「見いだすことができなかった」のでした。こうして主の31「憤り」が下り、国は滅亡、民は捕囚に囚われていくことになります。2500年前のこの警告は、今日私たちのの世界にも向けられているのではないでしょうか。

 人と人のそして人と神の破れ口に立ち続け、ついに十字架へと登られたのが主イエスです。その業によって14「敵意という隔ての壁」は砕かれ、人と人がまた人と神が共に生きる道が拓かれたのだと告げられています。伝道者パウロはこの主に出会って、当時のユダヤ人と異邦人の破れ口に立ち橋を架ける働きに生涯を捧げました(Ⅱコリント5:18~等)。今日も様々なところに破れ口があります。そこに立ち、執り成そうとする者を主は探しておられる、その者には主イエスに連なる祝福が共にあるのだと呼びかけられています。

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