「立ち留まり憐れまれる方」

マルコによる福音書 5章21~43節
哀歌 3章22~33節

 

 今日の箇所では、違った状況に置かれた二人の癒しが組み合わされて語られています(マタイ9:18~、ルカ8:40~)。主イエスと共に死にそうな23「幼い娘」娘の許へと急ぐ22「会堂長…ヤイロ」でしたが、そこに25「十二年間も出血の止まらない女」が現れ主イエスは立ち留まるのです。父親ヤイロは気を揉んだことでしょう。やがて、娘の死を告げる知らせが届いたのです。が、主イエスは36「恐れることはない。ただ信じなさい。」と呼びかけられたのでした。

 優先すべきはどちらか。私たちもそのような惑いの中に日々を歩み、後悔することもしばしばです。主イエスは小さな者の求めに立ち留まられる、このことは破れある私たちへの慰めです。

 女性が癒された時、主イエスは30「自分の内から力が出ていった」と感じられたとあります。先日参加した東日本同信伝道会研修会で、マタイ9:36をめぐる神学者K.バルトの理解に触れました。ここの「深く憐れまれた」(スプランクニゾマイ)とは主イエスが群衆の苦しみをわが身に引き受けられたということであり、同じ言葉はマルコ6:34で五千人の給食の箇所にも出てきます。主イエスは十字架へ進まれるその犠牲をもって、私たちを悲惨から祝福へと導かれるのです。

 その憐れみをもって、主イエスは少女を死から起こされました。この御業の背後にも、主の十字架の犠牲があることを読み取るべきです。哀歌3章に、主の23「真実は…深」く、32「慈しみは深」い、23「それは朝ごとに新たになる」と歌われています。私たちは破れまた死から逃れ得ませんが、主の真実・憐れみはそれらを超えて深く大きく、この大いなる恵みが私たちを日々歩ませ行くのです。

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