「全き人」

マルコによる福音書 3章20~30節
創世記 6章9~22節

 

 ガリラヤで宣教を始められた主イエスのもとには大勢の人、殊に病人や悪霊に取りつかれた人(1:31)、罪人とレッテルを貼られた人々(2:16)が癒しまた赦しを求めて集まってきました。一方、それを快く思わない者たちは主イエスを激しく批判しました。主イエスはそうした者たちを23「呼び寄せ」られた上で、28「人の…罪や…冒涜の言葉も、すべて赦される」と神の大いなる憐れみと赦しを宣言されたのです。

 では続けて語られた29「聖霊を冒涜する者は永遠に赦され」ない、とはどういうことなのでしょう。29「聖霊」とは神の生ける働きです。その神の赦しと招きの実現のため主イエスはこの世界に来られ、十字架で犠牲となり、復活を遂げられました。29「聖霊を冒涜する」とは、この招きを不必要だとして拒絶することです。私たちは、そしてこの世はそれほど立派で大丈夫なのでしょうか。

 ノアは 9「全き人であった」(口語訳)と記されますが、後には酒に酔って醜態を晒してもいます(9:21)。聖書の言う“全き”“完全”とは助けなしに自立できることではなく、 9「神と共に歩」むことを指しています(フィリピ3:12~15)。

 エゼキエル18章で、神は人間の罪を厳しく指摘しつつ「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」(31~32節)と呼びかけておられます。この招きに応え、神と共に、隣人と共に歩む道を進みたく願います。

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