イースター礼拝 「あしたは来たる」

ヨハネによる福音書 19章38節~20章14節
サムエル記下 23章1~5節

 

 1「朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」とあります。まだ闇が支配するこの 1「暗」さは、敬愛する主イエスを失った彼女の心の内をも示していましょう(ルカ8:2)。その前19:39~には、39「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」(3:1~)らが主イエスを墓に納めたとあります。彼が39「夜」に主イエスを訪ねたのは、ファリサイ派としての体面を気遣ったからでした。さらにイスカリオテのユダが主を裏切ろうとする場面でも「夜であった」(13:30)と記されるように、これらの闇は世と人を縛る罪の支配を表しています。

 墓ではすでに 1「石が取りのけ」られ、他の二人の弟子も空であることを確認しましたが、 9「復活」を彼らは 9「まだ理解」できないでいたのでした。この間、闇は黎明へと変化していたでしょう。でも彼らがほんとうに希望の光を与えられたのは、復活の主ご自身に語りかけられてからでした(13節~、19節)。

 こうして彼らは、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(12:46)と以前語られた主の言葉を思い起こしたことでしょう。罪の力は昔も今も世と生きる者を縛り、闇に押しとどめようとします。私たちにこれを打ち破る力はないかもしれません。が、復活の主はこれを破り、希望の光をもたらされるのです。“平和の光のくまなく世をてらす、あしたは来たる”(讃美歌403)、こう共々に歌いつつ与えられた今を歩み行きたく願います。

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