「記念として伝えられるだろう」

マルコによる福音書 14章1~9節
イザヤ書 55章8~13節

 

 1「過越祭と除酵祭の二日前」との言葉は、主イエスの十字架が差し迫ったことを指し示しています。これらの祭は出エジプトの解放を記念するもので、殊に 1「過越祭」は主がエジプトに裁きの災いを下された際に犠牲の小羊の血を印としたイスラエル人の家は守られた故事(出エジプト12章)を想起するものでした。今や主イエスは、世と人々を罪の呪縛から解放するために自らの命を分け与え犠牲の血を流す十字架に進もうとされていたのでした。

 その時、一人の女性が 3「純粋で非常に高価なナルドの香油」の壺を壊し全ての香油を主イエスの頭に注ぎかけたのです。 5「300デナリオン以上」とありますから、労働者のほぼ1年分の賃金に匹敵します。見ていた者は 4「無駄遣い」だと憤慨しましたが、主イエスは 8「この人は…わたしの…埋葬の準備をしてくれた。…福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」と言われたのです。

 この女性は主イエスの十字架の死を知っていた訳ではないでしょう。何らかの理由から主イエスに感謝を表すそうと、ただ持てる限りの愛を注いだのです。もっと良い方法があるはずだと言うことも可能です。でも、世と人はその業と力で自らを希望と平和へと解放することはできなかったのです。それゆえに主イエスは十字架へと進まれたのでした。

 世と私たちに対するこの主のみ業に、私たちは何をもって応え得るのでしょう。それはそれぞれの愛と真実を注ぐことにほかならないと、主イエスは告げておられるのだと思います(イザヤ55:13)。

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