「しかしバルナバは」

使徒言行録 9章26~31節
列王記上 19章8~13節

 

 人知を超えた主の召しにより(915)主イエスを信じ宣べ伝える者とされたサウロ(=パウロ)は26「弟子の仲間に加わろうと」しましたが、26「皆は…信じないで恐れた」のでした。かつて激しく迫害を加えた者だったのですから(81、フィリピ36)、それは無理もないことでした。

 27「しかしバルナバは」彼の言葉に耳を傾け、仲介の労をとったのです。こうしてパウロは教会の群れに迎えられたのでした。バルナバはこの後も、異邦人教会として発展しつつあったアンティオキア教会にパウロを紹介し(1125)、やがて二人はこの教会から第一伝道旅行に派遣されることになります(132)。このようにパウロが伝道者として立っていく上で、バルナバは大切な導き手また同労者となったのでした。

 彼の本名はヨセフで、バルナバは「慰めの子」(436)という意味のあだ名です。「慰め」(パラクレーシス)には、“傍らに” “呼ぶ” との意味があり、自らの活躍もさることながら他者の自立と活躍を援けることに骨を折るような人物だったことを思わせます。

 先入観、固定観念から解き放たれるのはなかなか難しいことです。旧約の預言者エリヤは疲れ果てた中で、主の声を聞きました。それはふつう神が顕現される11「風の中」11「地震の中」12「火の中」からではなく、12「静かにささやく声」(原意は“沈黙の声”)として与えられました。自らの耳・目だけを信じることなく、他者また主なる神の声を聞き分け得る開かれた思いを与えられるよう祈りたく思います。

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