「教会の出発-その豊かさと罪」

使徒言行録 4章32節~5章11節
申命記 33章1~5節

 

 使徒言行録においてここで初めて、32「信じた人々の群れ」が11「教会」(エクレシア)と呼ばれます。“召し出された者の群れ”との意味がそこにはあります。この源流は旧約聖書で 4「会衆」や「共同体全体」(民89等)と訳されるカーハールで、さらに辿ると“召集する(カーハル)”“声(コール)”との語源に至ります。 4「モーセ」が神の声に呼びかけられ指導者とされていったように(出34)、神の声が私たちを召し出し11「教会」を形づくらせるのです。

 11「教会」の歩みが始まったこの時、33「大きなめぐみ」と11「非常なおそれ」(ともに口語訳)が臨んだことが記されています。

 主を信じその喜びを生き分かち合うことにおいて32「心も思いも一つにし」ていったとき、32「持ち物」すら32「共有」するほどの信頼と支え合いが現実のものとなったのでした。

 主イエスは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われました(ルカ16:13)。「富」(マモン)は強力な力で、人を誘惑し屈服させ支配するからです。 1「アナニア」と 1「サフィラ」の出来事は、この誘惑に負けて神を欺いた罪の問題もまた教会の歩みの最初から起こったことを示しています。

 今日の教会は32「すべてを共有」とはしていませんが、主イエスを信じることにおいて信頼を交わし捧げ合うことで今もその働きを進めています。何もかもが金銭に置き換えられるような今日の社会にあって、真に大切なものは何かを見据え、生き、証しするその役割は小さくないことを思います。

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