「魚の記憶」

ヨハネによる福音書 6章1~13節
民数記 11章1~6節

 

 キリスト教で古くから用いられてきたシンボルの一つに、魚があります。“イエス・キリスト・神の・子・救い主”を表すギリシャ語の頭文字5つを並べると “イクスース(魚)” となるからで、ローマ帝国下の迫害時代、キリスト者たちは魚の絵を描いて互いの信仰を確かめ合ったと言います。

 魚はイスラエル人にとって、日常の食べ物であり、大切なタンパク源でした。荒野の旅の途中、エジプトでは魚をはじめ色々なものを食べていたのにと民が嘆く場面があります(民1146)。ちなみにイスラエルでは、ひらめ・かれいを“モーセの魚”と呼びます。モーセが紅海を分けたとき(出1421)、一緒に身が分かれてしまったとの伝説があるのだそうです。

 またガリラヤ湖でもよく獲れる淡水魚ティラピアは、“ペトロの魚” と呼ばれます。主イエスが5つのパンと2匹の魚で5000人以上を養われたときの魚も、これであった可能性があります。主イエスの十字架刑の後、失意の内に漁師に戻ろうとしたペトロが、復活の主に出会った話がヨハネ211~にあります。主の呼びかけに応えて思わぬ大漁を経験したとき、またその魚を主と一緒に食べたとき、ペトロはかつて「人間をとる漁師にしよう」(マルコ117)との言葉と共に弟子として召されたこと、わずかなパンと魚で皆を満たされたことを喜びと共に思いおこした筈です。

 ヨハネ福音書によると、5つのパンと2匹の魚は少年のお弁当でした(9節)。小さな者の働きも大きな喜びへと主に尊く用いられることが、福音書に描かれる魚を通して指し示されているように思います。

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