「手を洗わない神」

マタイによる福音書 15章1~11節
創世記 2章4~7節

 

 創造物語によると、人は主なる神によって 6「水」を含んだ 7「土(アダマ)の塵」から創造されました。イメージとしては、神はその手で泥遊びをするように人を作られたということです。 “神の御手” はその力強い業を指し示すものとして、旧約聖書に200回以上現れます(出13316等)。

 その後、神は泥遊びをなさった手をどうなさったのでしょう。手を洗った、とは書かれていません。むしろ神は土人形に口づけをするように、 7「命の息を吹きいれられた」のでした。

 今日の新約の箇所等に示されるように、手を洗うとは汚れたものとの関係を断つという行為でした(マタイ2724)。神の御手は歴史を導く力強さを帯びると共に、私たちを捨てることなく支え続けるのです。そのために神はついに自ら悩みある世に降り立ち、小さな一人一人に近づかれ、手を洗うのではなくむしろ深い愛をもって私たちの汚れた足を洗われました(ヨハネ13章)。

 これらのことを受けとめるとき、 2「なぜ…手を洗」わないのかと迫るファリサイ派に対する主イエスの憤りを理解することができるでしょう。人11「から出て来るものが人を汚す」のであり、その汚れは私たちを憐み近づいてくださる神の御手のみが清め得るのです。我関せずと自ら関係を断ち、安全かつ聖なる領域に立ち留まろうとする傲慢を主は指摘されました。この主の鋭い指し示しは、今日の私たちにも及ぶものであることを思います。

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