「何か食べるものがあるか」

 

 20章末尾を読んで感じるように、ヨハネ福音書は本来ここで完結していたのだと思われます。後につけ加えられたと考えられる21章は、主イエスの復活が限りある存在である私たちにどう関わるかを指し示しているように思います。

 3「わたしは漁に行く」 3「わたしたちも一緒に行こう」とつぶやく弟子たちの姿には、落胆や疲れのようなものを感じます。復活の主イエスに出会って(14節)希望と平和を分け与えられた筈なのに何故とも思いますが、振り返ってみればそれを持続できず時に失意に陥るのは私たち自身のあり様でもあります。

 しかしそのような時すでに、復活の主はそこに 4「立っておられた」のだと福音書は告げます(ルカ24:15)。そして主イエスは 5「何か食べる物があるか」と訊ねられました。そう、私たちが歩み続けるには日々の糧が必要です。

 そのための労苦を主イエスは見守り、恵みをもって導き、12「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招かれるのです。復活の主の臨在・支え・招きこそ私たちの日々の糧であり、そこから力与えられて新たな歩みへ出発できると告げられています。

 B.C.6世紀、亡国と捕囚にあってうなだれた民に遣わされた預言者エゼキエルは、神から 3「この巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ」と命じられました。恐る恐る口にすると、それは3「蜜のように甘かった」のでした。神の言葉はただ聞かれるにとどまらず、一人一人に食べられ、糧とされるべく語られています。一見苦く見えるその言葉(10節)も食べられ咀嚼されていくとき、日々を歩みゆくための豊かな糧となるのです。

 

ヨハネによる福音書 21章1~14節
エゼキエル書 2章8節~3章3節

 

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