収穫感謝合同礼拝 「わたしは見張っている」

エレミヤ書 1章11~19節

 

 11月に入り、教会前庭のもみじが美しく紅葉しています。そして今日午後はバザーなので、あちこちでいろんな匂いがしています。そんなふうに私たちは、日々いろんな変化に触れて過ごしています。

 エレミヤはB.C.7世紀、大国の狭間で翻弄される南王国ユダで預言者として召されました。 6「わたしは若者にすぎません」とエレミヤは尻込みしましたが、主はわたしが 5「あなたを聖別し…立てた」のだとこれを拒むことを許されませんでした。

 悩むエレミヤは日常の二つの光景に出合ったことで、ついにこの大任を受けとめていくことになりました。まず春の兆しを告げる11「アーモンドの枝」を見たことであり、次いで傾いた13「煮えたぎる鍋」を見たことでした。彼は11「アーモンド」を通して主が歴史をそして私をも12「見張っている」ことを、傾いた13「鍋」を通してやがて北から大きな脅威が訪れることを知らされたのでした。ここからエレミヤは、主こそが歴史を支え導かれることを語り続ける預言者として苦難と共に立っていきました。

 45世紀の教父アウグスティヌスは、“取って読め”との子どもたちの歌声に聖書を開いて主の呼びかけを見いだし、回心を遂げたといいます。日々接する小さな出来事にも、私たちに対する主のまなざしと呼びかけがあることを知ります。

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