「わたしは復活であり、命である」

ヨハネによる福音書 11章17~37節
詩編 90編1~12節

 

 11「わたしたちの友…が眠っている」、こう言って主イエスはベタニアに向かわれました。しかしそこにあったのは、愛するラザロを死に奪われてうろたえ泣くしかない人々の姿でした。こうした人々のあり様に接し、主イエスも35「涙を流され」33「心に憤りを覚え」られたとあります。圧倒的な力をもって愛する人々を屈服させようとする、死に対する憤りでしょう。

 詩90編は、主なる神から分け与えられた命の重さとその限りあることを見つめています。12「生涯の日を正しく数えるように教えてください」とは私たちの願い・祈りでもありますが、主イエスはそのような私たちを友と呼び涙を分かち合われるのみならず、十字架へと歩むその愛をもって死の隔てを崩されるのです。

 4「この病気は死で終わるものではない」と告げられていたように、ラザロは死から起こされました。このラザロもやがて生涯を閉じたことでしょう。でもラザロまたマルタ・マリアは、死が決してすべての 4「終わ」りではないことを仰いだのでした。そこになお主イエスの愛、神の愛が働くからです。

 25「わたしは復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と主は呼びかけておられます。私たちには如何ともし難い死の隔てを超えて働く愛があり、それが私たちを捉え結んでくださるとのこのことは、ただ仰ぎ受けとめ信じるよりないことです。でも不思議なことにその信仰こそ、生涯を豊かに支え導く杖となるのです。礼拝堂に掲げられた片桐清治牧師の絶筆の書“我は生命也”は、この主イエスの言葉です。

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