「わたしの業が証しする」

ヨハネによる福音書 5章31~40節
出エジプト記 3章13~14節

 

 主イエスの十字架を描いた絵画の中でも、16世紀ドイツの画家M.グリューネヴァルトによるイーゼンハイム祭壇画は、主が凄惨な死を引き受けられたことを強烈に訴えます。そして十字架上で息を引き取られた主イエスの右側には、洗礼者ヨハネが「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」(330)との言葉と共に描かれています。ヨハネは主イエスより先に殉教しましたから(マタイ141~)この場にいた筈はないのですが、彼が指し示し続けた主イエスの33「真理」はここにこそあることを伝えるべく、画家は彼を登場させたのでしょう。

 しかし、主イエスが神から来た証拠を示せとユダヤ人に迫られたとき、私はヨハネの証しをも必要としない、36「わたしが行っている業そのものが」証しすると言われたのでした。主イエスがなさったみ業、この福音書が「しるし」(211等)と記すその一つ一つは、驚きによって神を指し示しているのではありません。「神の国は近づいた」(マルコ115)との宣教の言葉が、病み、悲しみ、差別されている小さな一人一人にも確かに実現したそのしるしなのです。そして主イエスは、その恵みが私たちにおいても実現するために十字架へと進まれたのです。

 出エジプト314には、神の名前が「わたしはある」という意味であり、原初・現在・未来のいずれにおいてもそう宣言される方であることが示唆されています。ヨハネ福音書は、このことを「初めに言があった」(11)と記しました。この方は他の証明を必要としません。そしてこの方のみ旨と業は、主イエスを通して私たち一人一人にも届いています。

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