「わたしは荒れ野で叫ぶ声」

ヨハネによる福音書 1章19~34節
イザヤ書 40章3~5節

 

 ヨハネ福音書はその冒頭でクリスマス物語を記さず、 1「初めに言があった。…言は神であった。」14「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と世界の根源なる方の受肉の出来事を告げます。次いで今日開いたように洗礼者ヨハネが登場し、そのヨハネが指し示す主イエスの公生涯が始まっていきます。

 ヨルダン川で悔い改めの洗礼を施す働きを始めたヨハネは、世の人々の注目を浴びることになりました。19「あなたは、どなたですか」との問いに、ヨハネは20「メシア」=キリストでも、預言者21「エリヤ」の再来(マラキ319~)でも、モーセの予告した21「あの預言者」(申1815)でも21「ない」と明確に応じ、22「それではいったい、だれなのです」と畳みかけられると、23「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」(イザヤ403)と答えたのでした。

 ほかの3福音書はヨハネが預言者エリヤの再来として救い主の道備えの働きを担ったことを記していますが(マルコ913、マタイ1114、ルカ117等)、この福音書では彼はそうした称号を固辞したのだと描かれています。

 1「言」と23「声」の対比が印象的です。 1「言」こそが 3「万物」を成り立たせ、 4「命」そして 4「光」の源なのだと告げられています。被造物なる人間はこの 1「言」となることはできません、が世と私たちはしばしばそれらを取り違えるのです。

 一方、人間は個別な意思を与えられた23「声」として、 1「言」に応答しうる光栄を与えられてもいます。ヨハネは 1「言」を指し示す23「声」であると人間であることに自ら固く立ち留まると共に、私たちに近づき祝される 1「言」に応答すべき時が来ているその恵みを証ししたのでした。

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