「まだ生きている」

使徒言行録 20章7~12節
イザヤ書 43章1~7節

 

 新約で今日開いた箇所は、キリスト教の礼拝がどのように始まったかを伝える貴重な証言です。 7「週の初めの日」の 7「夜中」つまり土~日か日~月に、ひと所に 7「集まって」、 7「パンを裂く」聖餐と 7「話」がなされたということがわかります。教会はこうした礼拝を欠かせない大切なこととしてまもり、今日に至っています。

 9「パウロの話が長々と続」き、 9「エウティコという青年」が 9「ひどく眠気を催し」たというのも今日の私たちに似ているようで、可笑しくなります。が、このときは大変なことになりました。眠り込んだエウティコは三階の窓から転落し、死んでしまったのです。

 礼拝に来て死んでしまう、そんな悲劇があって良いのでしょうか。いっぽう、こうも考えさせられるのです。“安全な礼拝”で良いのだろうか ?

 なぜなら礼拝とは、古い自分に死に新しい命に生きる機会であると教えられているからです(ローマ64、Ⅱコリント517)。礼拝において、私たちは罪を抱えたありのままの姿を問われ、そうしたあなたはなお 4「値高く、貴」いとの招きの声を聞くのです。その中心には、自らの命を 3「身代金」とされた主イエスの十字架の贖いがあります。

 このときパウロと人々は、迫害による別れの予感の中にありました(38節)。そのパウロがエウティコを抱きかかえ10「騒ぐな。まだ生きている。」と叫んだこの礼拝の記憶は、命の主が破れある小さな私たちと共にいてくださることを告げるものとして人々の中で生き続けたのではないでしょうか。そして、私たちも聖書を通してこの証言にあずかっています。

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