召天者記念礼拝 「共に祝宴にあずかる日を仰いで」

マルコによる福音書 14章22~25節
イザヤ書 25章6~10節

 

 墓は何のために建立されるのでしょう。それは生の記憶・追憶のためであり、堅固な石が用いられるのは限りある人の生を永遠へと位置づけるためであると考えられます。

 マルコ1226で主イエスは、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と神が現在形で語られている言葉を示され、だからいにしえのアブラハムらも神の前で生きているのだと言われます。これだけでは釈然としませんが、ここで「モーセの書の『柴』の個所で」と指し示されていることが重要です。あのときモーセは燃え尽きない不思議な柴にはかない者を生かし進み行かせる神の慈しみの力を見、その力に押し出されて出エジプトの指導者へと立っていったのでした。私たちの命は神につながり、そのささやかな歩みも神の前に覚えられているのです。

 今日開いた旧約に、主は 8「涙」も 8「死」をも滅ぼし 6「すべての民」を祝宴に招かれるとの希望が語られています。こうした呼びかけに、私たちは先に召された愛する者たちが天上の祝宴にあずかっていることを仰ぎます。

 でも、この祝宴はなお完全なものではありません。この地上に悲しみが絶えないからです。主イエスは「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6:10)との祈りを教えられ、25「神の国で新たに飲むその日まで」と言われました。天上にある者も地上に歩む者も、神の国の完成を待ち望む祈りを共にしていることを心に刻みたく思います。

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