宮城北地区交換講壇礼拝 「苦難の中の希望」

ヨブ記 40章1~14節

 説教  戸井田 栄 牧師 (仙台松陵教会)

 

 愛の神が支配するこの世界、しかも全能の神が支配するこの世界で、なぜ不条理なことが起こるのか。しばしば私たちはこのジレンマに陥り、悩む。難しい問題だが、「ヨブ記」は一つの光を投げかける。

 ヨブは10人の息子・娘すべてと全財産を失い、また全身ひどい皮膚病になり、あまりの苦しさに死を願うようになる。しかし、死は来ない。それでついに自分のいのちを、生まれた日を呪うまでになってしまう。3人の友人たちは、因果応報の考えに立って悔い改めを勧めるが、ヨブは自分の潔白を主張し、とうとう神を責め立てるようになってしまう。

 そこで神は沈黙を破り、ヨブを神の経綸を暗くする者と叱責し、嵐の中から「男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」と語り、自然界の出来事、創造の不思議一つ一つについて尋ねる。次から次へと神はヨブに問いかける。「知っているか?」「知りません」「行ったことがあるか?」「ありません」「見たことがあるか?」「ないです」「できるか?」「できません」。

 この繰り返しのなかから、ハッと、ヨブは気付く。「私には知らないことだらけだ。この世界について知らないことだらけだ。だけど神様はすべてを知っておられる。」圧倒的な神の知恵の前に、自分が全くの無知であることに気づかされ、そしてヨブの目が開かれる。「この苦難がなぜ襲ったのか、どんな意味があるのかは私にはわからない。だけど神様は知っておられる。ならば、それでよいではないか。」そのように納得したのである。

 肝心の苦難の問題には何の答もなかったが、ヨブの心は満足した。神の叱責の言葉の中に、全面的に信頼することができたのだ。「神様はいままで私に最善をなしてこられた方だ。委ねよう。そして、苦難の理由に答えないといって、神様を責め立ててきた自分の高ぶりを悔い改めよう。」

 ヨブのこの告白は、信仰者すべてが通る試練に対して、1つの解答、希望を与えてくれる。どうしてこんな苦難があるのだろう?どうしてあのような不条理が起ったのだろう?しかし、私にその理由がわからなくても、神様は知っておられる。私にわからなくても、私を造られた全能の神様が知っておられる。最善をなされる神様が知っておられる。自分の苦難は神様に知られている!すべて完全に!。ならばそれでいいではないか!。

 このヨブの確信は、42章2節に表されている。「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。」口語訳では、「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。」となっている。「私は悟りました」「わたしは知ります」というこの告白に、苦難から解放されたヨブの安堵感が伝わってくる。

 さて、ヨブ記における「神の経綸」とは何であったのか。ヨブは預言した。19章25節「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」26節「この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。」 ヨブが預言した「贖う方」とはだれでしょう?「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫ばれた方、イエス様である。イエス様の死の叫びは、全世界の苦難の叫びである。これこそ世界一不条理な事件!、しかし神はこの方を復活させられた。これが神の答である。神ご自身が御子を通して苦難の全てを、痛みのすべてを引き受ける、それが神の経綸だったのだ。

 だから、私たちの苦難は知られている。そして、すでにイエス様によって引き受けられており、確実に希望に変えられる!。復活されたイエス様はヨブの前に立たれ、私たちのすぐ傍らにも立っていてくださる。この方こそ苦難の中の希望、まさに不条理の中の慰めである。イエス様は言われた。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ 16:33)

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