「変えられるもの、変えられないもの」

ヨハネによる福音書 12章27~36節
詩編 25編1~14節

 

 十字架を前にして主イエスは27「今、わたしは心騒ぐ」と思いを吐露され、27「『わたしをこの時から救ってください』と言おうか」とつぶやかれました。が、28「父よ、御名の栄光を現わしてください」と祈られたのです。この28「栄光」とは、ご自身が十字架上で死を遂げることを意味していました。

 “ニーバーの祈り”と言われるものがあります。20世紀アメリカの神学者、R.ニーバーによるものです。

神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないも のとを、識別する知恵を与えたまえ。

 川端純四郎兄は著書『311後を生きるキリスト教』において、“謙虚に受け入れるほかない死”と“受け入れてはならない死”を峻別し、後者についてはこれへと追いやるものとの戦いが必要なことを指摘されました。

 罪を抱えた人間が“変えることができるもの”と“変えることができないもの”を正しく見極めることは簡単ではありません。加えてそこから行動する勇気を得、受け入れる冷静さをもつことは、まさに祈りを必要とする事柄です。私たちは、み旨を顕わしてください、と祈り求めねばなりません。

 十字架の死がなぜ28「栄光」なのか、それはそのみ業によって世の人々が天の神に結ばれるからです(32節)。35「光のあるうちに歩きなさい」とは、み旨を祈り求めつつ与えられた時・場をしっかり踏み進むことだとも言えましょう。

 

 (付記)

 川端兄が存命でしたら、R.ニーバーと並べて紹介することを怒られるかもしれません。現実主義のもとに正戦論をも唱えたニーバーは、自らこの祈りから逸脱したのだとの批判もあり得るからです。川端兄は、キリスト者がニーバーの祈りを唱えるだけで安心して“受け入れてはならない死”に加担してしまう危険をも視野に入れて論じておられることを忘れてはなりません。

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