ペンテコステ礼拝 「わたしの負けです」

エレミヤ書 20章7~9節
コリントの信徒への手紙 一 15章10節

 

 B.C.7~6世紀、大国アッシリア・エジプト・新バビロニアの圧力に翻弄される南王国ユダで、エレミヤは預言者に召されました。私は語るべき言葉を知らない若者に過ぎませんと尻込みするエレミヤに主はある幻を見せ、激動の中にも主の言葉は必ず成し遂げられると告げられました。こうしてエレミヤは主の言葉に捕らえられた預言者となりました(1章)。

 エレミヤにとって、時に主の言葉は「むさぼり食べ」て「喜び躍」る好ましいものでした(15:16)。が、むしろ彼はその言葉のゆえに当時の多くの者たちから迫害を受け苦境へ追い込まれることのほうが多かったのです。それゆえ 9「もう…語るまい、と思っ」た、でも 9「主の言葉は…心の中、骨の中に…火のように燃え上がり」押さえつけられないのだとエレミヤは語っています。

 時流に流されず逆境にあっても語るべきことを語り続けた彼の姿は、心を打ちます。その強さの源泉は、生きて働きついには成し遂げられる主の言葉でした。当時の体制に反抗したエレミヤの言葉がこうしてまとめられ後世に残っているのは、その言葉に聞き力づけられ後に続いた者がいたからであり、それらの者たちもいわば無名の預言者なのだと、北博兄(当教会員)は論文の中で書いておられます(「福音と世界」2011年11月号)。揺れ動く今にあっても、生きて働く主の言葉が私たちをそこに立たせ支え導くことを心に刻みたく思います。

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