「もう管理を任せておくわけにはいかない」

ルカによる福音書 16章1~8節
コヘレトの言葉 8章9節

 

 1「もう管理をまかせておくわけにはいかない」と怠慢を咎められ、知恵を巡らし 5「主人に借りのある者」の債務を勝手に減じた管理人。しかも棒引きにした油50バトス(6節)とは1800 ℓ、小麦20コロス(7節)とは720 ℓという膨大な量です。  8「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」とは一体どういうことなのでしょう。

 1「主人」とは大地主であり、 1「管理人」は主人と小作人の間に立って財産管理をしていた者です。旧約の律法には、同胞また貧しい者からは利息をとってはならないとの規定がありました(出22:24、申23:20等)。ですが実際には利息が科せられ、膨らんだ債務に苦しむ小作人が多かったようです。立場が危うくなった管理人は心を入れ替え、小作人のためまたひいては主人のためになるよう仕事に打ち込んだというのです。

 人間は神が造られた世界の管理責任を帯びている、と聖書は語ります(創1:28、9:1~)。が、命を損ない、地球環境すら脅かしている人間はその責任を果たし得ているのでしょうか(コヘレト8:9)。 1「もう管理をまかせておくわけにはいかない」と告げられているのは、今日の世界そして私たちかもしれません。そうだとすると、何を為しどの道に進むことが命をまもりみ旨に沿うこととなるのか、今こそ私たちは熱心に求め取り組まねばならない、と主イエスの語られた譬は告げていることになります。

5月のおたより

 おいしそうでしょう。これ、何だと思いますか?。去る14日(火)、「虹の集い」の食事会が開かれました。その際のお弁当のメニューです。地場野菜ふんだんなお料理をみんなで美味しく頂きました。

 「虹の集い」は高齢者と一人暮らしの方の会で、年に2回くらい開かれています。お手伝いの方を含めて22名が参加されました。

 また礼拝堂で共々に礼拝をまもり、なつかしい唱歌に声を合わせ、それそれの愛唱聖句を当てるゲームなどを楽しみました。次回は10月とのこと、お楽しみに。

「油の用意を」

マタイによる福音書 25章1~13節
列王記上 17章8~16節

 

 今日開いた箇所の最後に13「だから、目を覚ましていなさい」と告げられていますが、譬に現れる 1「十人のおとめ」たちは 5「皆…眠り込んで」しまっています。この背景には、いつ主イエスが再臨されるか13「その日、その時を知らない」信仰者はどのように備えるべきか、との問題意識がありましょう。私たちは始終緊張して待つことはできません。居眠りは許容されています。

 当時の10「婚宴」は夜も含め、数日続いたようです。ですから欠かすことができないのは闇を照らす 1「ともし火」でした。発せられる光は不安を打ち消し、希望を指し示してくれます。 1「十人のおとめ」とも 1「ともし火」は用意していました。が、 3「油の用意」の有無が明暗を分けたのでした。

 1「ともし火」とは、歩み行く道を照らし出すみ言葉を指していましょう(詩119:105)。信仰者はみ言葉に励まされ導かれ進み行きます。では 3「油の用意」とは何でしょうか。

 Ⅰヨハネ2:27は「あなたがたの内には、御子から注がれた油があります…。この油が万事について教えます。…だから…御子の内にとどまりなさい。」と、油とは聖霊のことだと示唆しています。

 預言者エリヤ、やもめと一人息子は危機的な状況下、不思議に尽きることのない16「壺の粉…瓶の油」によって養われました。 1「ともし火」も 3「油の用意」を欠いては、やがて消えてしまいます。私たちは自力で油を補給することはできません。それをなし得る方との日々の交わりにあって、闇を照らし、道を進み行くことができるのです。

「パンを三つ貸してください」

ルカによる福音書 11章5~13節
エレミヤ書 29章10~14節

 

 今日の譬え話では、はた迷惑な人たちの姿が描かれています。まず 5「真夜中」に訪ねて来た 6「旅行中の友達」です。日中の暑さを避けて夜間に旅をすることは通常のことであり、イスラエル人は旅人を大切にすべしと言い習わされてきた(申10:19など)とはいえ、です。そして、その旅人をもてなそうと 5「パンを三つ貸してください」と真夜中に扉を叩き続ける 5「友達」です。あの家なら今日パンが残っているはずだ、と互いの台所事情まで知って押しかける親しさと信頼関係が見てとれます。

 迷惑をかけ合いながらも助け合って生きている、そうした庶民の姿に愛着を感じつつ主イエスは13「悪い者」と言っておられるように思います。

 いろいろ迷惑をかけて生きている “悪い奴” であるあなたがたも、助け合い、子供を愛することを知っている。ましてあなたたちを愛する13「天の父」は本当に必要なものを与えてくださる、と主イエスは教えられたのでした。

 13「聖霊を与えてくださる」とあります。伝道者パウロは、聖霊が働くとき私たちは神を「アッバ、父よ」と親しく呼べるようになるのだと語っています(ガラテヤ4:6、ローマ8:15)。

 バビロン捕囚期の預言者エレミヤは、苦難をも含めて主は11「平和の計画」で私たちを導かれるのであり、13「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、私に出会うであろう」と告げました。祈りとは父なる神との絆を確かめ、その方に出会う道です。

「あなたたちもぶどう園に行きなさい」

マタイによる福音書 20章1~16節
箴言 29章25~26節

 

 主イエスの語られた譬え話を味わっていきたく思います。

 収穫期の 1「ぶどう園」では多くの労働者が必要です。一日1デナリオンの約束で、夜明けに人々が雇い入れられました。加えて9時、12時、午後3時、午後5時にも雇われた人がありました。さて日没、賃金が支払われる段となり 8「最後に来た者」が呼ばれて1デナリオンを受けとったのです。 8「最初に来た者」は訝しく思ったかもしれませんが、10「もっと多くもらえる…と思って」待ちました。ところが自分も受け取ったのは1デナリオンだったのです。

 これは今日の私たちから見ても、おかしな待遇です。 8「最初に来た者」のように不平を言いたくなります。しかし13「主人」は不当なことはしていない、15「私が善いので、あなたの眼が悪くなっている」のだ(田川建三訳)と言われるのです。

 なぜ不当だと思うのか、それは比較の物差しを持ち込んでいるからです。この世はその物差しで計られ、私たちもそのような見方に染まって一喜一憂するのです。でも神の国はそのような物差しで計ることはできない、と主イエスは言われるのです。

 1「ぶどう園」とは、神の祝福を受けたこの世界を表しています(イザヤ5章)。課題が山積し様々な思いが交錯するこの世界にも神の祝福は注がれている、そのことを見誤らずに 4「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と呼びかけられています。そう考えると、ぶどう園で長く働いた者こそ実は幸いなのかもしれません。