「主の真実に生かされ、その恵みを分かち合い歩もう」

コリントの信徒への手紙 1章1~9節
イザヤ書 42章5~9節

 

 今日開いたⅠコリント1:9は2019年度宣教活動計画案の聖書箇所、説教題は主題です。

 異端の誘惑を受け多くの問題を抱えていたコリント教会に、パウロは 2「神の教会」 2「聖なる者」と呼びかけます。それは破れや誤りを含み持つ私たちを、神はイエス・キリストの十字架によって招いて 3「恵みと平和」に与らせてくださったからです。この 9「神」の 9「真実」は揺らぐことなく、コリントの信徒たちも必ずや福音に立ち帰るだろうとの希望にパウロは立っています。

 9「真実」との原語は、人間が主語となるとき“信仰”と訳されます。神の真実に私たちは信仰にあってどのように応答し得るか、これがコリントの信徒への手紙のテーマです。

 Ⅱコリント5:17~でパウロは、恐れと悩みに満ちた世もキリストの十字架によって神との和解を与えられたのであり、私たちはこの神の和解に連なって奉仕するのだと語っています。

 出エジプトの民に十戒が与えられ神と契約を結んだとき、モーセと70人の長老らは11「神を見て、食べ、また飲んだ」のでした。神と共に生きることは、恵みと希望の分かち合いへと私たちを押し出すのです。主の真実に養われ導かれ、与えられた2019年度を意義深く歩みたく願います。

イースター礼拝 「イエスの言葉を思い出した」

ルカによる福音書 23章56節~24章12節
申命記 16章1~3節

 

 金曜の午後に主イエスは十字架上で絶命され、夕刻53「岩に掘った墓」の中に葬られました。そして日曜の朝早く、従ってきた婦人たちがせめて 1「香料」で遺体を洗い清めたいと墓を訪れました。ところが遺体は見当たらず、 4「途方に暮れ」てしまったのです。

 すると天使と思われる二人が現れ、主イエスは語っておられた通り復活されたと告げたのでした。 8「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」とあります。そのとき、彼女たちに変化が起こりました。 4「途方に暮れ」たあり様から希望を与えられ、その喜びを分かち合うべく急いだのです。この婦人たちは最初の復活証言者となりました。

 8「思い出」すとは重要なことです。今日に至るまで、ユダヤ人は過越祭で出エジプトを思い起こすことを大切にしてきました(申16:1~)。キリスト者は聖餐において、主の十字架を思い起こしてきました。「わたしの記念としてこのように行いなさい」(Ⅰコリント11:24)と告げられたからです。いずれもこの救いの出来事が過去に留まるものではなく、今を生きるこの私に及ぶものであることを知るのです。

 婦人たちは 8「イエスの言葉を思い出し」、困惑から希望へと踏み出しました。同様に、主の復活は私たち一人一人にも希望と喜びへの転回点として与えられています。

4月のおたより

 先月のおたよりでお知らせした、四季の会主催「観梅会」が4月8日(月)20名の参加で行われました。行き先は、大崎市岩出山の「佐藤梅園」。当初雨も心配されましたが、当日は風もなく晴天、恵まれたひとときとなりました。

 目の前には白梅・紅梅の広がり、奥に森の緑、さらに向こうには雪をかぶった栗駒山とすばらしいコントラストを楽しみました。梅園を一周した後は、梅の香りに囲まれつつお弁当を開きました。イースターの少し前、復活の喜びを先取りしたかのようでした。

 帰りは、色麻町にある自衛隊の王城寺原演習場をゲートの外から見てきました。ここで榴弾砲の発射訓練が行われると、その音が教会までも届きます。私たちの近辺にこうした軍事施設があることを改めて意識しました。

 さらに七つ森のふもとにある森のカフェで、自家焙煎コーヒーをたのしみ、帰着しました。

 

「その犠牲によって」

ルカによる福音書 23章44~49節
エレミヤ書 15章5~9節

 

 主イエスのエルサレム宣教は、ついにご自身の十字架に至りました。が、釘づけられ命を注ぎ出すこの犠牲こそ、福音を成就させる業だったのです。

 十字架上の死に際し、44「全地は暗くなり…太陽は光を失っ」たとはどういうことでしょうか。併せ開いたエレミヤ15章には、エルサレムの背きに神の怒りと裁きが下る時 9「太陽は日盛りに沈み」人々は 9「絶望する」とあります。主イエスはこのとき本来なら世が受けるべきこの神の怒りと裁き、そして絶望を引き受けられたのでした。

 45「神殿の垂れ幕」とは、エルサレム神殿の最奥、聖所と至聖所を隔てる幕のことです。これを越えて至聖所に入ることは年に一度、贖いの儀式を行う大祭司にしか許されていませんでした(レビ16:1~)。これが45「真ん中から裂けた」ということは、人と神の隔てが取り払われたことを意味しています。「神の国は近づいた」(マルコ1:15)と始められた福音宣教の業は、ここに成就したのです。

 伝道者パウロはより広い視点でこれを捉え、世はキリストの十字架によって神との和解を与えられたのであり、この大いなる恵みに与る者はそれぞれ和解のために奉仕する任務を与えられているのだと述べています(Ⅱコリント5:17~)。

 主の十字架の出来事は私たち一人一人に最も深いところで慰めと平安を与え、世界と歴史に希望と方向を指し示すものであることを心に刻みましょう。

「お前がキリストなら」

ルカによる福音書 22章63~71節
エゼキエル書 18章21~29節

 

 主イエスは祈っておられた39「オリーブ山」で捕縛され、まずユダヤ66「最高法院」の、次いでローマ帝国総督23:1「ピラト」の裁判を受けられました。裁く彼らは口々に67「お前がメシアなら」、70「お前は神の子か」、23:3「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問したとあります。原文では “なら・なのか” に相当する “エイ” が文頭に付くだけで、もしそれを省けば、告発者らが「お前がメシア」「お前は神の子」「お前がユダヤ人の王」と告白したかのように書かれています。

 主イエスはご自身、キリストだとも神の子だとも王だとも言われませんでした。無論知らずにですが、主イエスを死に追いやった者が十字架という驚くべき神の救いの業に加担し、主イエスがどなたであるのか言い表したのでした。

 祭司長や律法学者らユダヤ教当局者たち、ピラト、主イエスを引き渡したユダ、見捨てたペトロ、殺せと叫んだ群衆…、福音書は主イエスを十字架に追いやった人間の様々な姿を描き出しています。そして私たちは、その中に自らの姿を見いださざるを得ません。自己中心をという人間の罪が束になって主イエスを十字架につけた、そしてその十字架は人間をその罪から解放するための神の救いの業であった、と福音書は告げているのです。

 23「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか」と主は呼びかけられています。十字架は主イエスを死に追いやった者、そして私たちのためでもありました。続けて23「彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜」ぶ、と告げられています。主イエスの十字架は、世と生けるものが滅びから命へと向き直り歩み出すために、この世に固く据えられています。