キリスト教入門講座 (第16期)

キリスト教に触れてみたい方、もう一度基礎を学んでみたい方に向けた講座です。

小西牧師がお話します。内容は第15期までと同じです。特に申し込みは必要ありません。

いずれも水曜日、19:00~20:30、仙台北教会にて。

第1回 : 2月27日  「名をもつ神」

第2回 : 3月13日  「イエス・キリスト」

第3回 : 3月20日  「十字架と復活」

第4回 : 3月27日  「神の国を生きる」

第5回 : 4月3日  「聖書」

第6回 : 4月10日  「召し出された者の群れ-教会」

「人の見るところ、神のまなざし」

ルカによる福音書 21章1~6節
サムエル記上 16章5~13節

 

 1「目を上げて」 2・3「見て」 6「見とれて」と、今日の箇所では眼差しが意識されています。人々は 1「金持ちたち」のたくさんの献金に注目し、エルサレム神殿の 5「見事な石と奉納物」に目を留めるのです。が、主イエスは 2「貧しいやもめ」のわずかな献金に込められた信実をご覧になり、歴史の流転を超えてなお残るものは何かと問われるのです。

 サウルに代わるイスラエル王を選ぶ際、主は 7「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と告げられ、羊の番をしていた末の子ダビデを選ばれたのでした。主なる神は真実を見通され、世と私たちはその眼差しの内に置かれています。

 ある講演で、時代はポスト・モダンを突き抜けてポスト・トゥルースに入ってしまったとの言葉を聞きました。真実の多様化どころか、もはや真実は重要ではなく個人の感情に訴えるものが影響力をもつ時代との指摘です。“ポスト・トゥルース”はオックスフォード英語辞典により2016年を象徴する言葉に選ばれています。

 社会からは共通の価値が見失われ、依って立つ基盤は流動化していきます。私たちは何に価値を置き、何をどう見極めていきましょうか。いや、まずそれ以前にあなた自身また世界と歴史が真実なる眼差しの内に置かれているとの主の言葉に耳を傾けてこそ、私たちに確かな基盤が与えられることを銘記する必要があります。

2月のおたより

 降雪の少ないこの冬の仙台ですが、さてこののち大雪などなく春を迎えるでしょうか。皆さまお一人お一人にまもりがありますように。
 まもなく3.11、東日本大震災発生から8年を迎えます。東北教区では4か所で記念礼拝を行うこととなり、宮城地区は当教会が会場となりました。祈りのうちに、あの時と今を結び合わせて3.11を過ごしたく思います。
 3月11日(月)、4か所で行われる記念礼拝は以下の通りです。開始時刻はいずれも午後2時30分から。どうぞお出かけください。

 

= 東日本大震災8年記念礼拝 (主催:日本キリスト教団東北教区) =

<宮城会場>
仙台北教会
説教 中井利洋 牧師 (仙台東教会)

<福島会場>
郡山教会
説教 高橋真人 牧師 (会津坂下教会)

<山形会場1>
山形六日町教会
説教 中村正俊 牧師 (上山教会)

<山形会場2>
酒田教会
説教 長尾厚志 牧師 (仙台ホサナ教会)

 

「神のものは神に」

ルカによる福音書 20章20~26節
イザヤ書 31章1~9節

 

 エルサレムで宣教を始められた主イエスに対する19「律法学者たちや祭司長たち」の敵意は深まっていきました(1・19節)。そこで20「回し者を遣わし」訊ねさせたのです。22「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」。これはローマ帝国から課されていた人頭税のことで、ユダヤ人には占領国への従属を象徴するものとして悩みの種となっていました。22「適っている」と言えば民衆は離反する、22「適っていない」との答を引き出せば反ローマ主義者としてイエスを告発できる、そうした23「たくらみ」が込められていました。

 このとき主イエスは、25「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのでした。これは一見納税を是認したように見えつつ、皇帝はあなたたちはそして誰もが本当に25「神のもの」を25「神に返し」ているかとの深く鋭い問いかけの言葉です。

 明日は “信教の自由を守る日” です。嘘や隠蔽が横行し力のみがまかり通るような中で、命の尊厳を守る人権・自由・平和…がすり替えられ奪われていくことを恐れます。大国 1「エジプト」と 8「アッシリア」の狭間で右往左往していたB.C.8~7世紀の南王国ユダにあって、それらはまやかしの 7「偶像」に過ぎないと預言者イザヤは語り、 2「御言葉を無に帰されることはない」真実なる方をこそ求めることの確かさを指し示しました。

 伝道者パウロは「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が…内に住んでいることを知らないのですか」(Ⅰコリント 3:16)と語っています。一人一人に神から託された尊厳は、日々のともし火また糧として生涯携え、ついには主なる神にお返しするものです。これを、すり替えられたり奪われたりしてはなりません。

「隅の親石となった」

ルカによる福音書 20章9~19節
詩編 118編22~25節

 

 9「ぶどう」は荒地に実りをもたらす作物であり、 9「ぶどう園」とは神の祝福を受けたこの世界を表しています(イザヤ5章)。従って13「主人」とは主なる神であり、私たちはこの世界なる 9「ぶどう園」を預かっている 9「農夫」ではないか、と語られています。

 9「農夫たち」は13「主人」から正しい管理とよき実りを期待されていました(創1:26~31)。ところが、送られた10・11・12「僕」たちを排斥し、13「愛する息子」を殺してしまうのです。14「そうすれば…我々のものになる」との言葉は、あのバベルの塔を建てて神に成り代わろうとした罪の姿そのものです(創11:4)。

 話の余りの展開に 1「民衆」は16「そんなことがあってはなりません」と応えましたが、その彼らを主イエスは17「見つめ」られました。数日後の主イエスの捕縛に際し、彼らが「その男を殺せ」「十字架につけろ」と叫ぶのです(23:18・21)。

 ここで主イエスが語られた17「隅の親石」とはもともと、亡国・バビロン捕囚を辿った無用の石ころのような民イスラエルを世界の祝福の基とされた驚くべき神のみ業を賛美する言葉です(詩118:22~、イザヤ28:16~)。主イエスはご自身に迫る十字架に、人間の罪の深さと共に、それをも貫いて救いへと導かれる神のみ業を見つめておられたのです。

 主は今日の世界と私たちをも17「見つめ」られていましょう。それは時代と私たちの愚かさを見通す眼差しであり、それでもなおこれを捨てず平和と祝福へと導こうとされる慈しみの眼差しです。私たちはどう応え得るでしょう。