「その権威を与えたのはだれか」

ルカによる福音書 20章1~8節
イザヤ書 45章2~9節

 

 1「神殿の境内」とは、主イエスが商売人を追いだすという実力行使をなさった “異邦人の庭” のことです(19:45)。集うあらゆる人々に 1「福音を告げ知らせておられ」た主イエスのもとに、 1「祭司長や律法学者たち…長老たち」すなわちユダヤ教当局者たちがやってきて詰問したのです。 2「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」

 こう問う以上、彼らは正しい権威しかも神に由来する権威を帯びていると自負していたのでしょう。が主イエスの反問によって、それは怪しげになっていきました。洗礼者ヨハネを認めていなかった彼らの本心は、その 4「洗礼は…人からのものだった」です。が彼らは 6「民衆」を恐れて、 7「分からない」と偽ったのです。

 嘘・偽りにあって 2「権威」は自壊していきます。不適切な勤労統計の隠蔽問題、放射能汚染水をめぐる虚偽説明など、多くの嘘が満ちることによって私たちの社会がますます劣化・弱体化していくことを危惧します。

 もちろん主イエスの 2「権威」は神からのものでありつつ、ご自身はそれを主張されませんでした。それは主イエスの十字架の福音に代々の人々がいかに生かされてきたかに、自ずから示されています。

 使徒4章には、ペンテコステ後にペトロ・ヨハネが神殿で捕えられ、やはりユダヤ教当局者たちからその 2「権威」を問われたことが記されています。しかし二人は堂々と証しして、神に連なるその 2「権威」を垣間見せたのでした。

 今日の旧約に 5「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。」と、すべての 2「権威」はここに発することが告げられています。そしてその神から命を分け与えられたものは、皆その一端を帯びています。分け与えられた自らのそして他者の尊厳を大切に、また尊重する私たちでありたく願います。

「強盗の巣にした」

ルカによる福音書 19章45~48節
イザヤ書 56章3~7節

 

 主イエスの時代のエルサレム神殿は中央に聖所が建ち、それを取り囲むように庭が区切られていました(図参照)。異邦人は “異邦人の庭” まで、イスラエル人の婦人は “婦人の庭” まで、イスラエル人の男性は “イスラエル人の庭” まで、と立ち入りが制限されていました。 “祭司の庭” と聖所には祭司しか、さらに奥の至聖所には大祭司が年に一度しか入ることができませんでした。

 45「境内」とは “異邦人の庭” のことです。そこで賽銭用貨幣や献げ物の動物を扱う者たちが45「商売をしていた」のを主イエスは追い出し、ここは46「祈りの家」だと宣言されたのでした。主イエスは何に対して怒られたのでしょう。

 46「祈りの家」との表現は、今日併せ開いたイザヤ56:7にあります。バビロン捕囚から帰還を果たした民がやっとエルサレム神殿を再建した頃のこの預言において、以前は礼拝を許されなかった 3「異邦人」や 3「宦官」もやがてこの場に招かれることが示されました。 4・6「安息日を…守り…わたしの契約を…守る」者は誰でも大いなる祝福に結ばれる、と主は告げておられます。

 多くの者は、至聖所が最も尊いと考えていたかもしれません。が主イエスにとってはこの“異邦人の庭”が、誰もが神と向き合い得る最も聖なる庭、ないがしろにしてはならない場所だったのです。

 4・6「安息日を…守り…わたしの契約を…守る」とは、私たちにとって礼拝を大切にし 1「正義」と 1「恵みの業」に生きることです。ですから教会に集う主日も、生活に歩む週日も共に大切です。それぞれにおいて主のみ旨を訊ね生きる者は誰でも、 7「わたしの…喜びの祝いに連なることを許す」と告げられています。

「石も叫び出す」

ルカによる福音書 19章28~40節
ゼカリヤ書 9章9~10節

 

 レント・イースターまで、主イエスのエルサレムでの宣教を振り返りたく思います。9:51以降、ガリラヤからの旅を続けてこられた主イエスと弟子たちは、ついに都エルサレムに到着したのでした。待ち受けていたのは、十字架の受難と死でした(18:31~)。28「イエスは…先に立って進」まれたことに、この最大の使命に自ら進まれたその決意が表されています。

 弟子たちの歓呼の中、主イエスは30「子ろば」に乗ってエルサレムに入城されました。それはこの方が「諸国の民に平和」(ゼカリヤ9:10)をもたらすために来られたことを意味していました。そして高まる賛美の声を押しとどめようとした人々に、この人たちを黙らせても40「石が叫びだす」だろうと主イエスは言われたとあります。

 当教会玄関横に、旧会堂正面に嵌め込まれていた壁石が置かれています。1914年の献堂当初 “DeForest Memorial Church” と刻まれていましたが、戦時中、敵性語を廃すべしとの圧力にあって教会はこの文字を削りました。ですからこれは、平和を求めきれなかった私たちの自戒の石でもあります。そうした思いも込め2007年に説明板を設置した際、平和を求める願いは絶えることなくついには40「石が叫びだす」だろうとのこの言葉を記しました。

 こうして主イエスは平和を求める叫び、賛美の歌声を祝し、ご自身のみ業へと向かわれたのです。このとき30「子ろば」そして40「石」をも用いられた主は、欠けを含む私たちをも祝し導き用いてくださるでしょう。

1月のおたより

 どのようなクリスマス・新年をお過ごしになられたでしょうか。さてこのクリスマスも、当教会にアメリカ・ペンシルバニア州北部ハーフォードの「アメリカ合同教会 第一会衆派教会」からカードが届きました。

 東北教区世界宣教協力委員のジェフリー・メンセンディーク宣教師(現・桜美林大学チャプレン)が、アメリカの教会と東北教区の教会・センターを結び合わせる “クリスマスカード・プロジェクト” を立ち上げて下さり6年になります。今回はアメリカ合同教会・ディサイプル教会に属する38教会と、東北教区の81教会・2センターがカードをやり取りしています。

 今回頂いたカードには「私たちは会合があるごとに、皆さんのために祈っています」とあり、また長文のメッセージが記されています。K姉が訳してくださったので、全文は教会機関紙「カケスだより」の次号に掲載の予定です。お楽しみに。

 当教会からも、クリスマスに撮った集合写真を添えて、近くカードを送ります。

新年礼拝「笑みつつここで歩みなさい」

創世記 26章1~25節
ヨハネによる福音書 17章15~19節

 

 1「イサク」とは、 “彼は笑う” との意味です(21:6)。父アブラハムが、主なる神は大いなる慈しみをもって自分たちの愚かな笑いを(17:17、18:12)を朗らかな笑いへと変えてくださったとこう名づけたのでした。今日の26章には、そのイサクが主人公の物語が記されています。

 彼が住むパレスチナ地方に 1「飢饉」が起こりました。この危機に彼は父がしたように(12:10~)エジプトに避難しようと考えましたが、主はそれを許されませんでした。 3「あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいて…祝福」するとの主の言葉を信じ、イサクは12「その土地に…種を蒔」いたとあります。飢饉に種を蒔く、この無駄と思える業を主は祝して収穫は百倍にもなったのでした。

 すると今度はそれが14「ねた」みの原因となり、周囲のペリシテ人は迫害を加えました。がイサクは争わず、土地を移って繰り返し18・21・22「井戸」を掘ったのです。雨が少ないパレスチナで井戸を掘ることは大変なことですが、イサクと僕たちはこうした労苦を重ねたのでした。

 ここの 1「飢饉」・諍いは、今日の世界・社会にも山積する諸課題を意味していましょう。でも主はそこに留まることを指し示され、イサクは命を守るために12「種を蒔」き18・21・22「井戸」を掘り続けたのです。主はそうした労苦を祝し、ついには 4「地上の諸国民…すべて」の祝福に向けて用いられると約束されました。

 十字架の前の晩に主イエスは弟子たちについて、願いはどこか素晴らしいところへ彼らを連れ去ることではなく、課題ある世に真理によって聖別して遣わすことだと主なる神に祈られました(15~19節)。私たちも主のご計画の内に、それぞれの生へと派遣されています。笑みつつ与えられた場での働きに向かい行く者とされたく願います。