「わたしを何者だと言うのか」

ルカによる福音書 9章18~27節
出エジプト記 3章13~14節

 

 先週もたれた第23回教区の集いで、マルコ福音書の通読が行われました。通して語られるのを聞いて、主イエスの福音は言葉・業・十字架・復活そのすべてをもって私たちに与えられているのだと改めて思わされました。この主イエスの力強い言葉と業に接したガリラヤの人々の間には、この方は18「何者」だろうとの驚きが広がりました。19「洗礼者ヨハネ」19「エリヤ」19「昔の預言者」の再来だなど様々な噂が交わされていますと報告する弟子たちに、主イエスは20「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。

 ペトロが「神のキリストです」(口語訳)と答えました。ここで大切なのは彼が正しく答えたかではなく、自らの信仰を言い表したことです。ペトロは、あなたこそ私の救い主ですとまことをもって告白したのでした。

 当教会の受洗志願書の信仰告白を記す欄には、“自分にとってイエスとは誰であるかを書いてください”とあります。ここに記され信仰告白会で語られる内容は一人一人異なりつつ、そこから主と共なる旅路が始まっていくのです。

 信仰を告白したペトロも、続けて告げられた主の十字架予告は理解できませんでした(マルコ8:32)。また十字架に際し主を否んだ(22:54~)ペトロでしたが、主の赦しと再びの招きにあって生涯主と共に歩んだのです。“イエスとは誰であるか”とは、私たちにとっても生涯の問いです。紆余曲折がありつつも主と共に歩みゆく者は、その旅路において27「神の国を見る」であろうと告げられています。

「あなたがたを遣わす」

ルカによる福音書 9章1~6節
エゼキエル書 28章25~26節

 

 ガリラヤ宣教の主イエスの許から派遣された 1「十二人」は、主に養われその恵みを広く分かち合うべくそれぞれの生活へと遣わされる後世の信仰者をも象徴していましょう。その派遣に際し、 3「何も持って行ってはならない」と厳しいことが告げられています。それは主なる神にこそ信頼し支えられるその大切さ重さを知るためだったでしょう。 1「力と権能」を授けられた 1「十二人」でしたが、時に無力をも露呈したのです(9:40)。まことの養い主イエスから派遣されたこと自体が、最大の 1「力と権能」であることを彼らは知ったのでした(22:35)。

 被災者支援センターエマオには東日本大震災発生以来これまでに9000名近いボランティアがやって来てくれました。その中には、何の見返りもない働きの中で大切な経験をし、自らの方向を見いだしていった若者もいます。

 併せ開いたエゼキエル書に、養われる民が26「ぶどう園を植え、安らかに住み着く」ことを通して、主なる神はご自身25「聖なることを…示す」とあります。26「ぶどう」は荒れ地にも育ちますが、良い実をつけるまで10年近くかかる作物です。生活に地道に向き合い取り組むこともまた、主の派遣に応え祝福にあずかる働きであることを教えられます。

11月のおたより

 11月11日(日)午後、恒例の教会バザーが開かれました。好天に恵まれて暖かい中、地域の方がおいでくださり、ひとときを過ごされました。

 全体人数は例年より少なめだったかもしれませんが、買い物後も礼拝堂に設けられた休憩コーナーでゆっくり楽しんでくださった方が多かったように感じました。おかげさまで、手作りケーキ・味噌おでん・焼きそば・コーヒーなど完売。こひつじ文庫・男声合唱「コーロ・リベーロ」のステージも好評でした。

 収益はすべて、諸団体の福祉活動・社会活動に送られます。

 ご準備・奉仕・応援くださった皆さん、おつかれさまでした。

 

収穫感謝合同礼拝 「十頭のらくだ」

創世記 24章9~21節

 

 息子イサクにふさわしい嫁を探してきて欲しいと主人アブラハムから頼まれた僕は、10「十頭」の10「らくだ」と一緒に旅に出ました。らくだは重い荷物を載せて長旅ができると共に、たくさんの乳を出してくれる頼もしい動物です。

 加えて僕にはもう一つ考えがあったようです。辿りついた井戸べで、僕は14「らくだにも飲ませてあげましょう」と言ってくれる女性をお示しください、と主に祈りました。すると一人の女性がやって来て、汲んだ水がめから僕に飲ませると共に19「らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と言ったのです。ベトエルの娘リベカでした。

 らくだに持久力があるのは体内に脂肪や水を蓄えているからで、そのぶん一度に大量の水を飲みます。10「十頭」の10「らくだ」はおよそ1トンの水を飲んだはずで、リベカはその水を汲む苦労を厭わなかったのです。

 こうしてリベカはイサクの妻となりました(24:67)。アブラハムはこの結婚が、ついには人類全体への祝福へとつながることを見通していました(6節、12:3)。リベカの優しさと労苦は、主の遠大な計画の中で尊く用いられたのです。僕たちが汲んだ水をぶどう酒に変えて、「最初のしるし」を顕わされた主イエスのみ業を思い起こします(ヨハネ2:11)。私たちの思いを超えてみ旨を実現される主を仰ぎ、それぞれの業に向かい行きたく願います。

キリスト教入門講座 (第15期)

キリスト教に触れてみたい方、もう一度基礎を学んでみたい方に向けた講座です。

小西牧師がお話します。内容は第14期までと同じです。特に申し込みは必要ありません。

いずれも水曜日、19:00~20:30、仙台北教会にて。

 

第1回 : 11月7日  「名をもつ神」

第2回 : 11月14日  「イエス・キリスト」

第3回 : 11月21日  「十字架と復活」

第4回 : 11月28日  「神の国を生きる」

第5回 : 12月5日  「聖書」

第6回 : 12月12日  「召し出された者の群れ-教会」

召天者記念礼拝 「安心して行きなさい」

ルカによる福音書 8章40~56節
詩編 116編8~14節

 

 今日の箇所では、違った状況に置かれた二人の癒しが組み合わされて語られています。主イエスと共に死にそうな42「十二歳ぐらいの一人娘」の許へと急ぐ会堂長ヤイロでしたが、そこに43「十二年このかた出血が止まらず」苦しんでいた女性が現れ主イエスは立ち留まるのです。父親ヤイロは気を揉んだことでしょう。そして、娘の死を告げる知らせが届いたのです。

 不思議に年数が符合しています。わずか42「十二歳」で生涯を閉じなければならないかもしれない、43「十二年」も苦しみ続けた、との違いはありつつも、ここには如何ともし難い中から叫ぶ思いが共通しています。そうした人のあり様に主イエスは立ち留まり、耳を傾け、み業を振われるのです。

 女性の苦しい43「十二年」を主イエスは48「信仰」と呼ばれ、48「安心して行きなさい」と救いを宣言されました。傷心のヤイロにも50「恐れることはない」と呼びかけ、娘を死から起こされました。彼らは身体を癒されただけでなく、どんなときにも祝し伴われる主を知ったのでした。詩編116編には、救いを経験した者の感謝と告白が歌われています。たとえ苦境にあるときも(10・11節) 9「命あるものの地にある限り…主の御前に歩き続けよう」と、女性またヤイロと娘もこのとき誓ったことでしょう。

 50「恐れることはない」48「安心して行きなさい」と呼びかけられる主に信頼し歩み得る、信仰者の生涯の幸いを思います。