めぐみの森 夏まつり

 当教会付属の「仙台めぐみ幼稚園」は、2011年3月末をもって37年間の働きを閉じましたが、教会の親子の活動は「めぐみの森」活動として継続されています。

 教会学校めぐみの礼拝、中高生の会、こひつじ文庫、親子グループめだか、子育てママの集いわかぎといったそれぞれの働きがつながって、森のような豊かな場になることを願っています。

 このめぐみの森全体のおまつりが25日(土)14:30~16:00に、教会で開かれます。わたあめ・ケーキ・スーパーボールすくい・工作ひろば・めぐみ劇場など楽しいコーナーが用意され、100円のチケットで全コーナーをまわることができます。

 どなたもおいでいただけます。子どもたちに声をかけて、おいでになりませんか。楽しみにお待ちします。

「むなしくは終わらない」

ルカによる福音書 7章1~10節
創世記 1章1~5節

 

 ローマ軍で100人程度の兵卒を指揮する 2「百人隊長」は、一兵卒が昇進していって就くことができる最高の階級であったといいます。 8「権威」そして命令は絶対という軍隊にあって、この 2「百人隊長」は厳しく苦しい経験を重ねてきたことでしょう。それでいて 2「部下」をこのように思いやり、さらには占領統治している 3「ユダヤ人の長老たち」から好意をもたれているのですから、その人格の高さが窺われます。

 が、その彼が自らを 7「ふさわしくない」と言うのです。キーワードは“言葉”(7・8節)です。 8「行け」 8「来い」 8「これをしろ」との軍隊の命令は絶対に果たされても、 2「病気」そして生死にあって自らの言葉はむなしく響かざるを得ないことを彼は噛みしめたのでしょう。そしてむなしくは終わらない言葉をください、と主イエスを依り頼んだのです。

 創世記冒頭の創造物語は 3「光あれ」との神の言葉に 3「こうして、光があった」、さらに与えられた言葉で世界のすべては創造されたと、神の言葉が無から有を生みすべてを成し遂げることを告げています。この神から主イエスは来られ、前章ではその言葉に聞きそして生きなさいと教えられていました(6:46~49)。

 どこかで破れざるを得ない言葉に生きる私たちは、確固たる言葉を必要としています。イザヤ55:8~は、そのような私たち一人一人も神の言葉によって派遣されそれぞれ使命を与えられていると告げています。それは私たちが破れを抱えつつも、それを繕って余りある神の言葉を帯びているということでもあります。

8月のおたより

 8月6~8日(月~水)、今年で第43回目を数える「平和七夕」が行われました(主催:「『平和を祈る七夕』市民のつどい)。核兵器を廃絶し平和を求める祈りと共につくられた折鶴が、今年は約110万羽寄せられたとのことです。

 これらを綴り合せて5本の吹き流しが作られいつものクリスロード商店街 ジョリビル前に飾られると共に、期間中折鶴でつくったレイが配られてノーモア・ヒロシマ・ナガサキが訴えられました。

 写真は、初日朝6時からなされた飾りつけ作業。今年も、明治学院東村山高校・会津北嶺高校などからたくさんの青年が参加してくれて、うれしいことでした。

 準備と実施の様子は、ブログやフェイスブックでも見ることができます。「平和七夕」と検索してみてください。全国・世界の多くの方々がつながり、関わってつくり上げられていることがよくわかります。

「聞き、行う人」

ルカによる福音書 6章16~49節
サムエル記下 23章1~7節

 

 “平地の説教”(6:20~49)も平行箇所の“山上の説教”(マタイ5:1~7:29)も、主の47「言葉を聞き…行う」ことの大切さで締めくくられています。

 48「洪水」とは、時に巡り来る試練を指していましょう。震災研修に来た高校生から“被災経験をたくさん聞いて、苦しく泣きそうなこの思いをどうしたらいいでしょう”と訊ねられ、私自身たじろぎながらも“痛く厳しい出来事の中にも何かを意味を見いだす時、思いは変えられていくのだと思うよ”と答えました。試練のただ中にも立ち現れる“意味”は自ら掴めるものではなく、然るべき時に与えられるのだと思います。試練にも神の栄光を見いだし(ヨハネ9:1~)、無から有を呼び出し(ローマ4:17)、死に救いを顕わされた(24:46~47)主なる神を私たちは仰ぎ、試練にも復活の光が与えられることを信じ求めるのです。十字架と復活という深い48「土台」に根ざした47「言葉」に聞き、生きなさいと教えられています。

 イスラエル史上最も偉大な王とされる 1「ダビデ」の最後の言葉を記すに際し聖書は、もともと羊飼い 1「エッサイの子」であった彼が主に 1「高く上げられ」 1「油注がれた」のだとその生涯を総括します。そしてダビデ自身も 5「神と共にあって私の家は確かに立つ」のであり、自らの愚かさと罪を超えて(サムエル下11:1~12:23) 4「光」 5「救い」 5「喜び」は神から来ると告白したのでした。 2「主の言葉」に生きる者の幸いと強さを思います。

平和主日礼拝 「あなたの裁きを求めます」

ルカによる福音書 6章37~38節
イザヤ書 26章7~12節

 ガリラヤ宣教の途中、多くの聴衆に語られた “平地の説教” (17節)の一部です。ここで主イエスは37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。」という形で、37「罪人だと決めるな」37「赦しなさい」38「与えなさい」と教えられました。この言葉は、人に優しく寛大にせよとの教えに留まりません。むしろ人は破れを抱え、罪人として裁かれ、赦され、与えられねばならない存在であることが告げられていましょう(39~42節)。

 誰が世と私たちを正しく裁き赦しへと導き得るのか、それは全てをご存じであり完成へと導かれる主なる神によってです。併せ開いたイザヤ26:7~には、主は混乱・混沌を超えて12「すべての業を成し遂げ」12「平和」へと導かれるのであり、その 9「裁きが地に行われるとき、世界に住む人々は正しさを学ぶ」と歌われています。 7「神に従う者の行く道は平ら」とは、その主に信頼する者は出会う困難をも乗り越え平和を待ち望み得ることを指していましょう。

 私たちは別のことと捉えがちですが、主のもとで裁きと赦しはつながっています。そのことは主ご自身が人となり、罪の裁きを十字架で受けとめられて裁きと赦しが一つにされたことに示されています。あなたがたはこのように37「赦され」豊かに38「与えられ」ている、だから隣人をも37「赦し」38「与えなさい」と告げられています。