「安息日の主」

ルカによる福音書 6章1~5節
出エジプト記 20章8~11節

 

 1「安息日」は十戒で休息と神礼拝のときと定められたもので、金曜日没~土曜日没の一日がこれに当たります。11「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから」と神による天地創造がその根拠として挙げられています。そしてユダヤ人のみならず全ての人さらには家畜にも、言わば創られたすべての命がこの休息に与るべきと指し示されています。

 安息日規定はもう一つ申5:12~にもあり、ここでは15「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばして…導き出された」と出エジプトの出来事が根拠とされています。

 なぜこの日は10「いかなる仕事もしてはならない」とされるのか、それは命の基本的なあり方を思い起こすためです。仕事は何かを生み出し手にするためになされます。でも“持つ”ことが命を保障するのではありません。それに先立ち命は与えられ救われて“在る”のであり、この基本を忘れるとき命は根拠を見失い隷属に逆戻りしていくのです。

 ところがこうした伝統を受け継いでいるはずの 2「ファリサイ派」の人たちは、弟子たちのしたことは収穫・脱穀にあたるから律法違反だと見咎めたのです。こうした変質を主イエスは嘆きつつ、 5「人の子は安息日の主である」と言われました。この言葉をどのように受け止めたらよいでしょう。主イエスは、安息日がすべての人の祝福と解放の日であることを宣言されると共に、その平和に人々を呼び帰すためにご自身 5「人の子」として降り立たれたのでした。この主を仰ぐ信仰者たちはのち、主が復活を遂げられた日を安息日・主日としました。

 ここの 5「人の子」との言葉はすべての命をも指していましょう。私たちも主日の礼拝において命が主なる神の恵みと救いの内に置かれているその基本を確かめ、一週の旅路へと出発するのです。

「新しい布、新しい革袋、新しい生き方」

ルカによる福音書 5章33~39節
イザヤ書 42章1~9節

 

 皆が33「断食」しているのに33「あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしている」とその常識外れを問われたとき、主イエスは36「新しい…布切れ」37「新しいぶどう酒」の譬を語られました。晒していない36「新しい…布」は収縮度が高く37「新しいぶどう酒」はガスを含んでいて、36「古い服」37「古い革袋」を損なってしまいます。そのように主イエスのみ業はダイナミックであって、古いあり様では受け止めきれないことを教えられたのでした。

 併せ開いたイザヤ42章でも人の思いを超えゆく主のみ業が語られています。 9「成就した」 9「初めのこと」とは、異国ペルシアの王キュロスによるバビロン捕囚からの解放でした。これも思いもしなかった天の配剤でしたが、さらにこれを超えゆく 9「新しいことを…告げよう」と主は語られたのでした。

 3「傷ついた葦を折ることなく…裁きを…確かなものとする」 1「僕」とは、仕える仕方で福音を告げ知らせ自ら十字架へと進まれた主イエスを思わせます。さらにこの主が今も生きて、私たちの思いと行いに先立ち 9「新しいこと」を起こして歴史を導かれることがここでは指し示されていましょう。

 主イエスは先の譬を語られると共に、福音がもたらされた今は34「婚礼」にも比すべき喜びの時なのだと告げられました。私たちは礼拝において、この喜びに立ち戻ります。バビロン捕囚から帰還した民は「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。…主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」との呼びかけのもと礼拝を再開し、共々に喜び祝いました(ネヘミヤ 8:10~12)。私たちも主の臨在とそのみ業を喜び祝う中で、新しい一週を新しく生きるべく派遣されて行くのです。

「床を担いで家に帰りなさい」

ルカによる福音書 5章17~26節
詩編 78編40~58節

 

 当時の18「家」は箱型で外階段があり19「屋根」は木の枝や日干し煉瓦・土などで出来ていましたから、穴をあけることは難しいことではありませんでした。が、19「人々」が集まっているその真上から穴をあけ19「病人を床ごとつり降ろした」というのは、あまりに大胆そして非常識な行動です。

 この病人と連れてきた18「男たち」は強い絆で結ばれていたのでしょう。主イエスの評判を聞きつけ、重荷を一刻も早く取り除いてほしいと18「床」に乗せた彼を懸命に運んで来たのです。主イエスは20「その人たちの信仰を見て」、20「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言されたのでした。

 ところが人々の一部から訝りが起こりました、21「神のほかに…だれが罪を赦すことができるだろうか」。これに対し主イエスは、23「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と訊ねられたとあります。口で罪の赦しを言うのは簡単だ、と人々は考えたかも知れません。が、主イエスのこの宣言は容易く発せられたものではありませんでした。

 20「罪」の原意は“的を外す”ということです。神の恵みの許に創られ養われながら繰り返しこれを裏切ったイスラエルの民を指弾する詩78編は、その罪について57「真実を失い、狂った弓のようにねじれた」(口語訳)と記しています。喜びを希望を平和を願いながら互いに傷つけあう世と私たちは、このねじれを断ちがたく纏っています。この罪の呪縛から神の大いなる祝福へと世と被造物を解放するために、主イエスは十字架へと進まれたのです。

 癒された彼に、主イエスは24「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。24「家」とはこれからの歩みのこと、24「床」は彼がしてもらった重荷の担い合いを指していましょう。神の赦しのもと互いに支え合い生きること、それが罪に勝って生きる道だと主は彼を、人々を、そして私たちを送り出されたのです。

7月のおたより

 7月に入り、仙台の気候は蒸し暑くなったり涼しさに戻ったりと乱高下しています。体調はいかがでしょうか。それぞれにまもりをお祈りします。

 さて、七ヶ浜町のジレットハウスは今年も7月~8月中旬までほぼいっぱいの予約で、教会・学校・ボーイスカウト・スポーツクラブそして個人など各方面に広く利用されています。

 利用が多いとどうしても各所に不具合が生じます。また敷地内外の草も伸びる季節、教会からはジレット部会を中心に、毎月のように清掃・修繕・草刈りなどの作業に出かけています。この9日にも行われました。作業が終わって、皆さんの表情には達成感も感じられますね。ご奉仕くださった方々、お疲れ様でした。

 エアコンなどはありませんが、吹きわたる海風そして響く波の音もあり、ほぼ快適に過ごせるジレットハウスです。この夏のそれぞれの活動が充実したものとなりますように。

「人間をとる漁師」

ルカによる福音書 5章1~11節
エレミヤ書 16章16~18節

 

 神の国の宣教を始められた主イエスが、 8「シモン・ペトロ」10「ヤコブ」10「ヨハネ」らガリラヤ湖の漁師を弟子に召された場面です。10「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」との主イエスの呼びかけに、彼らは11「すべてを捨ててイエスに従った」のでした。いったい何が彼らを動かしたのでしょう。

 主イエスは彼らのことをしっかりと 2「ご覧になっ」ていました。彼らが徒労感の中で 2「網を洗っていた」こと、おそらく 5「夜通し苦労」したのに全くの不漁であったことなどをです。その後 3「舟から群衆に教え」られたとき一番そばにいながら必ずしも聞いていなかったシモン・ペトロに、主イエスは彼らの生業である 4「漁」を通してみ業を顕わされたのでした。

 10「人間をとる漁師」との表現には、併せ開いた16「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる…わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている」との旧約の言葉が響いています。ここには人の18「罪と悪」を見逃すことなく、ついには救いに導かれる主のみ業が語られています。

 彼らはそのような眼差しでこの私をも見つめ召される主イエスに出会い、そのような神の漁へといざなわれたのです。ここから始まった彼ら10「人間をとる漁師」の歩みは大いなる充実と祝福に溢れたものとなりました。シモン・ペトロは種々の失敗や挫折を経験しつつもそれらを凌駕する赦しと派遣を繰り返し与えられ、主に従う生涯を全うしました。同様に主に捉えられて従い、その生涯を充実の内に歩んだ多くの信仰者を私たちは知っています。

「福音の種蒔き」

ルカによる福音書 4章42~44節
イザヤ書 28章23~29節

 

 新島襄ゆかりのカタルパを教会前庭に植樹してより3年、40cmほどだった苗木は180cm位にまで成長しました。その後も同志社関係者の尽力によって福島の牧人会本部・福岡の警固教会などに苗木が植えられ、それぞれ元気に成長しているようです。

 宣教の業に入られた主イエスは、31「カファルナウム」の町を拠点としてガリラヤ伝道を始められました。悪霊や病気など様々な力に囚われ苦しむ41「一人一人に手を置き」これを癒される主イエスの評判は広まり、多くの者たちが押し寄せるようになったのです。ある42「朝」、主イエスは42「人里離れた所」で祈っておられたとあります(マルコ1:35)。主イエスとても悩める一人一人と向き合い癒すことは力を注ぎ出すことであり、主なる神との深い交わりを必要としたことを知らされます。でもその場にも人々は押し寄せ42「自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」のでした。

 でも主イエスは43「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」とこの町を発って行かれました。なお癒しが待たれているにも拘らず、主イエスはなぜ離れて行かれたのでしょうか。

 主イエスは43「神の国」、神の支配の到来を告げる43「福音」の種蒔きをしておられたからです。悪霊や病気の癒しは神の支配の実現、言わばその実りとして与えられたものでした。種はすぐに実りに到らなくてもやがて「三十倍…六十倍…百倍」の喜びに至る力を秘めている、これを仰げと主イエスは繰り返し教えられました(マルコ4章など)。

 カファルナウムの人々にも、そして私たち一人一人にもその種はすでに蒔かれています。その成長は大いなる29「主の計らい」の内に置かれており、喜びの実りへと導かれゆくのだと併せ開いたイザヤ28:23~に告げられています。