2月のおたより

 1973年の移転当時、当教会の住所は「荒巻字カケス塒(とや…ねぐらという意味)5-129」でした。このことから、当教会の機関紙は「カケスだより」と名づけられました。

 さて、次の72号からは当教会出身の牧師さんたちからの寄稿が連載されます。第1回は、K牧師とH牧師がご担当くださるとのこと。楽しみですね。

 そして今春、出身教職が加わります。東日本大震災を機に洗礼を受けられ、献身されたTさんが同志社大学神学部大学院を卒業して牧会に出られます。Tさんは3月7日に同級生のNさんと結婚され、揃ってY教会の伝道師にご着任予定です。いっぺんに結婚・卒業・引越・着任はたいへんですが、それだけ何倍もの喜びということですね。歩みが、お働きが豊かに祝され導かれますよう、お祈りします。

△ 教会学校教師会に二人をお迎えしました

「荒れ野で」

マルコによる福音書 1章1~8節
申命記 8章1~10節

 

 3・4「荒れ野」とは野草や灌木しか生えない未耕地のことで、35「人里離れた所」とも訳されています。そうした荒れ野で洗礼者ヨハネは 4「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えました。主イエスは宣教の働きに入られる前に13「四十日間…サタンから誘惑を受けられ」ましたし、しばしばそうした場所で祈られました。それは何故だったでしょう。

 出エジプトの指導者モーセは民に 2「四十年の荒れ野の旅を思い起こ」させ、それは 3「人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを…知らせるため」だったと告げました。ヘブル語で 2「荒れ野」を意味する言葉の語源には“語る・告げる”との意味があります。人が寄りつかない荒れ野は人が神と出会い、その言葉を聞き、向き直って歩み出す場所なのです。 “荒れ野の40年” は、約束の地で神の民として再出発する上で必要な期間・経験でした。

 レント(受難節)は灰の水曜日からイースターの前日までの40日間と6つの主日から成る期間であり、主の十字架を想起し悔い改めを覚える時です。 4「悔い改め」とは単に反省することではなく、神の許で方向転換することです。このことは、私たちも虚心に神の言葉に聞き歩みを確かめ再び歩み出すことの必要・大切さを指し示しています。

「王を立てた誤り」

士師記 9章6~15節
コリントの信徒への手紙 一 4章8~13節

 

 約束の地カナンに定着後、イスラエルはしばらくの間王をもたず、士師と呼ばれるさばきづかさが指導しました。士師記には12人の士師が登場します。その一人ギデオンが強力な敵ミディアンを打ち破ったとき、人々は彼を王に立てようとしました。が、ギデオンは「主があなたたちを治められる」(8:23)と、これを退けたのでした。

 ところがその息子アビメレクは言葉巧みに首長たちを束ね、兄弟70人を虐殺してイスラエル史上初めての王の座に就いたのです。一人残った末の弟ヨタムがこれを告発して語ったのが、今日開いた譬話です。

 木々が王を立てようとして 8「オリーブ」10「いちじく」12「ぶどう」に頼みに行きます。が、彼らは9・13「神と人」に仕えることこそわが使命だとこれを断りました。最後に15「茨」が引き受けますが、その結果15「火が出て…焼き尽く」すだろうと不気味な予告がなされています。やがてそれは、現実となったのでした(21~57節)。ここでは、権力が含みもつ根深い問題が言い当てられています。

 日本国憲法はその前文で主権在民を宣言し、この普遍の原理が国の基礎であると述べています。ところが自民党が出している改憲草案は “日本国は長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって…” (前文)と特殊な価値から国を規定しようとし、“全て国民は、この憲法を尊重しなければならない” (102条)と国家権力を憲法で制限する立憲主義を転倒させています。

 伝道者パウロは、自己満足と高ぶりに陥ったコリント教会員に対し、十字架の主イエスに従って仕える者となることの真実を指し示しています。9・13「神と人」に喜ばれる生き方を求めたく願います。

「勇者の未完」

申命記 34章1~8節
ヘブライ人への手紙 10章19~25節

 

 モーセはイスラエルの民をエジプトの地から救い出し約束の地へと導き上る指導者として、主なる神から召されました(出3章)。幾多の困難を乗り越えて出エジプトを果たした後も、約束の地を目指す荒野の旅は40年に及びました。彼は不満・不信を繰り返す民を叱咤し束ね導く厳然たる指導者であった一方、主なる神に対しては民の罪の赦しをひたすら乞う仲保者でもありました。

 長い旅路を経て、ついに一行は約束の地を目前にした 1「モアブの平野」に辿り着きました。が、モーセは 4「そこに渡って行くこと」は許されなかったのです。それは旅の途中メリバで彼が主に忠実でなかったゆえと語られていますが(民20:12~、申32:31~)、これは罰というより、未完を甘受せざるを得ない人間の姿を現しているように思います。私たちもまた必ずしも目標に達することなく、その途上で歩みを終える存在であるからです。モーセは 1「ピスガの山頂」から約束の地を望み見つつ生涯を閉じたのでした。

 私たちは破れを抱え、未完に甘んじざるを得ない者です。が、そのような者に23「真実」をもって近づかれご自身の犠牲によって執り成してくださった主イエスのゆえに、私たちは安んじて神とまみえることができる、と併せ開いた箇所に告げられています。

 モーセは後継者としてヨシュアを任命し(31:1~)按手しました(9節)。 8「三十日の間…モーセのために喪に服して、その期間は終わった」との言葉には、使命の継承と新たな出発の決意が感じられます。当教会の “旧約聖書を読む会” は1993年から約23年かかって、約半分を読み終えました。ですから2038年に全巻を読み終える計算ですねと言うと笑われる方が多いのですが、これは素敵なことだと思います。ゴールを目指す長い継承の中に確かに位置づけられた私を見いだすからです。聖書の民も今を生きる私たちも、神に伴われその完成を目指す旅路を歩んでいます。