2017 クリスマスメッセージ

 上の絵は、主イエス降誕後40日後の場面を、15世紀フランドル派の画家H.メムリンクが描いた作品です。エルサレム神殿の境内には、毎日待ち続ける老人二人の姿がありました。このシメオンとアンナは、救い主に出会えるとのお告げを受けていたのです。この日、幼子イエスが両親ヨセフとマリアに連れてこられたとき、二人はついに約束が果たされたことを悟り、幼子を抱き喜びにあふれて歌ったのでした。

 年を重ねた老人が希望にあふれ喜びを歌ったとのこの場面をもって、ルカ福音書はクリスマス物語を閉じます。二つの約束の成就を待ち望んだことが彼らの希望の源泉でした。一つは世の救い主をわが腕に抱くことができるとの約束、もう一つは救い主の到来により地の果てまですべての人が希望と平和にあずかり得るとの約束です。幼子イエスを抱きつつ、二人は自らに、さらには世全体に与えられた希望と喜びを噛みしめたのでした。

 シメオンとアンナはその日まで長く待ち続けましたが、今日の私たちはもはや待つことなくおいでになった幼子イエスを抱くことができます。なお悩みと課題が山積する世の中ですが、そこに大いなる希望の光を灯すべく救い主がおいでになり平和への道が備えられたことをそれぞれに受けとめ味わいたく願います。

 

「敵味方の論理」

マルコによる福音書 9章38~41節
イザヤ書 2章2~5節

 

 その宣教の業により主イエスの38「名前」が評判となり広まる中で、その働きに追随して働く者も出てきたのでしょう。がヨハネは38「わたしたち」使徒グループに38「従わないので、やめさせよう」としたのでした。しかし主イエスはその狭量さをたしなめて40「逆らわない者は…味方」なのだと教え、41「一杯の水を飲ませ」る友愛を求められました。

 確かに私たちはすぐに敵味方を区別し、その構造の中に閉じこもろうとする愚かさを抱えています。昔は戦でも名乗りを挙げ合うのが作法でした。が、大量の兵器を戦わせる戦争においては、兵士は道具とされていきます。今日は敵を視認する以前に、敵味方識別装置によって攻撃を加える時代となっています。

 新兵は敵を殺す道具として教育され、洗脳されます。アメリカ海兵隊員としてベトナム戦争に従事したA.ネルソンさんも多くのベトナム人兵士・民間人を“敵”として手にかけてきたといいます。が、“なぜあなたたちは私の国にいて、私たちを殺しているのか”と敵兵から問われたこと、そして戦闘中に飛び込んだ壕の中でベトナム人女性の出産に立ち会ったことが、私たちは敵味方である前に人間なのだと思い起こさせたのでした。除隊後PTSDの苦しみを経て、ネルソンさんは自らの体験から戦争の現実を語る活動を続けられ、日本国憲法第九条を世界に広める働きにも関わられました。

 主イエスは自らを憎む者をも罪から解放するために、十字架へと進まれました。主イエスにとってはすべての人が味方だったのです。私たちを対立そして戦いへと誘う罪の支配をこそ敵とし、警戒する者でありたく願います(エフェソ6:12)。

11月のおたより

 下の写真をご覧ください。教会にある二本のカエデです。撮影したのは同じく11月4日(土)。ご覧のとおり、前庭の一本はみごとな紅葉ですが、中庭の一本はまだ青々としています。

 種類が違うのか、日当たりや風などの環境によるのか、はたまた木が(気が?)せっかち/のんびりなのかわかりませんが、毎年このようなかなりのタイムラグがあります。  折りしもこの12日(日)は教会バザーですから、来場者の目を楽しませてくれることでしょう。それとも“花よりダンゴ”で、目に入らないでしょうか?。

 寒さがつのります。それぞれに神さまのまもりがありますように。

収穫感謝合同礼拝 「すいかやメロンが忘れられない」

民数記 11章4~9節

 

 5「きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない」、荒野の旅の途中で出エジプトの民は不平を洩らしました。 5「きゅうり」は私たちの知るものとは異なり、すいかのことだと思われます。すいかやメロンは美味しさに加えて、汗をかくと失われやすいカリウムに富み、暑いエジプトでよく食べられていたようです。 5「玉葱やにんにく」も元気が出る食べ物として、ピラミッド建設の時代から好まれていました。

 でもエジプトで民は奴隷だったのです。助けを求めうめき叫ぶ声を主が聞き届けてついに解放し、今約束の地へと導き上ってくださっているのに(出3:7~)、民は美味しいものが食べられるのならば束縛の方がましだとつぶやいたのです。こうした民に、主は20「ついに…鼻から出るようになり、吐き気を催すほどになる」まで肉を食べることができると約束されました。やがてうずらが押し寄せて約束は実現しましたが、その貪欲のために大勢の民は倒れたのでした(31節~)。

 貪欲に陥るとき、人は何かの奴隷となることを自ら求めるのです。これは昔も今も異なりません。そのような世と私たちに、私が憐れみと犠牲をもって解放したのだから「奴隷の軛に二度とつながれてはな」らないと主は呼びかけておられます(ガラテヤ5:1、4:9)。私たちにも与えられた自由の尊さ重さを、心に刻みたく願います。

チャリティーバザー

いよいよ来週、
11月12日(日)13:00~14:45に、今年のバザーを開催します。

手作り品・雑貨販売のほか、
手作りケーキ・教会員栽培の野菜・石巻の海産物などの販売、
おでん
・わたあめなどの出店が予定されています。

今年も、益金は福祉施設や国際活動支援などにすべて捧げられます。

どうぞお楽しみにおいでください。

召天者記念礼拝 「はるかにそれを見て喜びの声をあげ」

ヘブライ人への手紙 11章13~17節
出エジプト記 13章17~22節

 

 19「ヨセフ」はイスラエル人でありながら、エジプトの宰相となった人物です。大飢饉の際イスラエル人をはじめ多くの民を助けるなど良き手腕を発揮し、エジプトの地で亡くなりました。しかし、神がイスラエルの民を顧みられ再び約束の地に導かれるとき19「わたしの骨を…一緒に携えて上るように」と遺言を残し、19「モーセ」と後継のヨシュアはその言葉通りにしたのでした(ヨシュア24:32)。エジプトの地で力を尽くしつつも、そこは13「仮住まい」の地であると考えたのです。

 この思いをさらに展開しヘブライ11章は、信仰者にとって13「地上」の生涯は13「仮住まい」であり、神の御許こそ14「故郷」なのだと語ります。これは13「地上」の歩みを軽視しているのではありません。スポーツの世界で “ホーム” “アウェイ” という言葉が使われます。神の御許そして完成というホームを仰いでこそ、アウェイにあっても13「喜び」つつ全力を発揮できることを指し示しています。この歩みの先頭には主イエスがおられます。主イエスこそアウェイなる地に来られて十字架に至るまでその歩みを全うされ、復活の勝利を得て天へと帰られたからです。

 今日記念している召天者もそして私たちも、地上の生涯において神の完成と平和を13「手に入れ」ることはないでしょうが、主イエスに連なる13「信仰」においてそれを仰ぎ見今を歩みゆくことができる幸いを与えられています(1節)。