宮城北地区の日交換講壇礼拝 「『塩の柱』の涙」

創世記 19章1~29節

 説教  布田 秀治 牧師 (いずみ愛泉教会)

 

 今年4月8日、セクシュアル・マイノリティの方に対する人権侵害・差別事件が起こされました。そこでは “聖書に書かれているから” と述べられます。聖書にどう書かれているのでしょうか。創世記19章は “ソドムの罪” が “同性間の性愛・性交” を意味すると考えられてきました。しかしここはそうではなく、hospitality=接待・歓待の大切さが書かれているのです。鍵になることは18~19章のつながりの中で読むということです。アブラハムの hospitality に対してイサク誕生の予告がなされたように(18:1~3・10)、ここではロトの hospitality に対して一族の命を守る約束が語られているのです(19:1~3・13)。この19章は、同性愛を禁止する内容ではないのです。

 26「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった」と記されています。ロトの妻は神さまの命令に従わなかった不信仰のゆえに罰を受け、身を滅ぼしてしまったと解釈されてきました。しかしソドムの町には結婚して住んでいる娘たちがいます。その娘たち家族のことが気がかりです。そして、生き延びた自分を責める思いもあります。ロトの妻は後ろを振り返らずにはいられなかったのではないでしょうか。

 セクシュアル・マイノリティの人々に対する差別・排除が “聖書に書いてあるから” と正当化され、繰り返されてきました。そこには「自分と異なる人の生存権を踏みにじるゼノフォビア(外者恐怖症)の傲慢とホスピタリティの欠如」(山口里子)があります。そのために流された、数知れぬほど多くの涙の柱があります。私たちはその涙にこそ、思いを馳せたいと思うのです。

「このような子どもの一人を」

マルコによる福音書 9章30~37節
詩編 131編1~3節

 

 8:31~に続く、主イエスの2回目の受難予告です。しかし弟子たちは32「この言葉が分から」ず、34「誰がいちばん偉いかと議論し合」う有様でした。主イエスに問われて34「黙っていた」というのですから、これがみ旨に沿わないことだと知ってはいたようです。

 そのような中、主イエスは36「一人の子供」を36「彼らの真ん中」に立たせ、37「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われたのでした。ユダヤ人社会において子どもが与えられることは祝福のしるしでしたが、自立できない子どもは無価値な存在でした。主イエスはそうした小さな者を36「真ん中」に迎え37「受け入れる」ことを教えられたのです。

 アメリカのエッセイスト、R.フルガムは著書 『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』 で、“人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々送ればいいか、本当に知っていなくてはならないことを、わたしは全部残らず幼稚園で教わった。人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜学校の砂場に埋まっていた。” と書きました。そうかも知れません。生きるという基本においては、私たちは子どもと変わらないのです。

 その子どものようで小さな私が神の祝福に結ばれるために、主イエスは十字架への道を歩まれました。神の眼差しの前に私たち自身が認められ、受け入れられています。だからあなたがたも互いに受け入れ合いなさい、と主は指し示しておられます。

10月のおたより

 この11日(水)、礼拝堂で高齢者と一人暮らしの方の会 「虹の集い」 が開かれました。お手伝いの方を含めて25名が参加されました。

 共々に礼拝をまもり、のち若林区にある産直市場 「ぐるぐる」 さんのお弁当をみんなで頂きました。津波被災から復興を遂げた畑で採れた野菜のお料理がふんだんに盛り込まれた、やさしくおいしいお弁当でした。何と、りっぱな 「お品がき」 までついていましたよ。

 「ぐるぐる」 さんは、被災者支援活動を続けている一般社団法人です。活動に興味のある方は、http://santyokuhirobaguru.wixsite.com/guruguru をご覧ください。

 食後、お一人ずつ皆さんからメッセージを頂きました。教会に連なるようになった頃のこと、いま様々な課題をも共に担い合う家族への思いなど、それぞれの思いをゆっくり伺うことができました。今後もこうした機会を大切にしていきたいと声がありました。

 「虹の集い」 は年に2回くらいの開催です。次回は、春に教会外へお出かけの予定です。さあ、行き先はどこでしょう !?。お楽しみに。

「信仰のないわたしを」

マルコによる福音書 9章14~29節
創世記 15章5~6節

 

 24「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」、考えてみればこれはおかしな言葉です。この父親はこの息子が21「幼い時から」、あらゆる治療・助けを求めてきたことでしょう。そして主イエスのもとに辿り着きましたが、18「弟子たち」も癒すことができませんでした。父親が口にした22「おできになるなら」との言葉に神への諦めを見た主イエスは、なぜ信じようとしないのか、求めようとしないのかと叱責したのです。そのとき父親は反射的にこう答えたのでした。

 熱心な修道士だったM.ルターは拭い去れない自らの罪と、聖書に繰り返し現れる「神の義」(ローマ1:17等)との言葉との間で苦闘しました。裁き主なる神の前で、私は決して正しくあり得ないと悩んだのです。が、繰り返し聖書に取り組む中で、「神の義」とはそうした罪人を十字架の贖いをもって赦し受けとめてくださる神の恵みのことだとの理解に到達しました。「義」とは関係が正常につながっているということであり、それはただ神の「福音」(ローマ1:17)=喜ばしき訪れとして私たちに与えられるのです。

 24「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」、こう叫んだ父親はこの信仰の原点に立ったのでした。この後主イエスが言われた29「祈りによらなければ」との言葉も、自らの欠けを知り、そのような私とも向き合ってくださる神を求めることです。

 この福音の原点を広く共有すべくM.ルターは1517年10月31日、ヴィッテンベルク城教会の扉に95ヶ条の論題を掲出し、ここから宗教改革が始まりました。この日から500年を数えます。

第95回教会音楽の夕べ

仙台北教会創立130周年、ならびに「讃美歌21」刊行20年を記念して、
教会音楽の夕べを開催します。

オルガン  今井奈緒子
ソプラノ   菅 英三子

「仙台北教会」の前身は,新島襄を校長とする「東華学校 (宮城英学校) 」の
教師たちによって設立された「宮城組合教会」です。
その後,「仙台東三番丁教会」の時代を経て,現在に至ります。

1887年 (明治20年) 創立当時,礼拝での讃美歌は、
聞き覚えでいくつかの歌が歌われていたのではないかと推測されます。
1900年代に,小学校での「唱歌」が必修になり,歌うことが一般的なこととなり、
讃美歌も、楽譜表記や訳の変更など様々に編纂や改訂が行われてきました。

 このような時代の流れの中,「讃美歌21」が出版され20年となります。
オルガンに今井奈緒子氏,ソプラノの菅英三子氏をお迎えし,その魅力に迫ります。

 

◇  曲 目  ◇

いつくしみ深い 493 in G
主われを愛す 484 in Es
オルガンソロ 「キリエ、とこしえの父なる神よ」 BWV669 J.S.バッハ

いかに幸いなことだろう 125 in G
神はわがとりで 377 in D
オルガンソロ 「神はわが堅き砦」 J. パッヘルベル

オルガンソロ 「キリストは甦りたまえり」 BWV627 J.S.バッハ
イエスの担った十字架は 305 in a
ガリラヤの風かおる丘で 57 in E

オルガンソロ 「慰め」 F. リスト
球根の中には 575 in As

 

日 時   10月15日(日)  14:00 開演 (開場 13:30)

料 金   2000円 (全席自由)

会 場   日本キリスト教団 仙台北教会

 

「十字架という栄光」

マルコによる福音書 9章3~8節
出エジプト記 40章34~38節

 34「主の栄光」とは、主なる神がご自身の臨在とその業を顕わされることです。出エジプトの民の間に34「臨在の幕屋」が完成したとき34「主の栄光」が満ちましたが、それはあまりに目映くて(出33:20)直接見ることはできませんでした。栄光を覆う34「雲」と38「火」に導かれて、彼らは約束の地を目指したのでした。

 主イエスが高い山の上で輝く姿に変容され旧約を代表する 4「モーセ」 4「エリヤ」と会談されたというのは、主イエスがキリストの栄光を帯びた方であることを示しています(7節、ヨハネ1:14)。しかし 5「ペトロ」ら弟子が感激に浸る間もなく、主イエスはいつもの貧しい姿へと戻られました。そして十字架の道を進みゆくべく 9「山を下り」られたのです。

 新約聖書でこの「栄光」との言葉を一番多用するのはヨハネ福音書であり、最も繰り返し現れるのが十字架の前の晩に主イエスがなさった“大祭司の祈り”においてです。「父よ、今…わたしに栄光を与えてください」(同17:5)、この「栄光」とは十字架を指しています。なぜ自身の死が「栄光」なのか、それは十字架においてこそ世に対する神の愛が顕されるからです。十字架という栄光、これはおよそ世の常識と食い違っています(Ⅰコリント1:21)。がそこにこそ真実を見、自らも「自分の十字架を背負って」(8:34)この主に従った代々の多くの人がいたことを私たちも知っています。

世界聖餐日礼拝 「私の後ろに廻りなさい」

マルコによる福音書 8章27節~9章1節
列王記上 19章19~21節

 

 ガリラヤを中心とした宣教によって主イエスへの期待と名声が高まる中、使徒ペトロは29「あなたはメシアです」と言い表しました。これは、最初のキリスト告白でした。

 がその直後、ペトロは33「サタン、引き下がれ」と激しく叱責されるのです。それは、主イエスが明かされたご自身の受難と死を否定したからでした。十字架こそ世と人々に救いをもたらすための主イエス最大の使命であることを、ペトロはじめ弟子たちは受けとめられませんでした。神の慈しみの計画は、人の思いをはるかに超えていたからです。

 ただし、ここで主イエスは “出ていけ” と言われたのではありません。33「引き下がれ」は34「後に従」うと同じ語であり、直訳すると “私の後ろに廻れ” となります。私の後ろに廻りその背を見てついて来なさい、そうすれば私の思い、その道をやがて知ることになるだろうと主は呼びかけられたのです。

 34「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主は言われます。それはそれぞれの使命を担いつつ主のみ旨を求めること、主の背を見つめてついて行くことです。そうすれば、やがてこの世でついえることのないまことの35「命」に出会うであろうと告げられています。