「十二の籠にいっぱいになった」

マルコによる福音書 6章30~44節
申命記 24章19~22節

 

 神の国の宣教へと派遣された30「使徒たち」が帰ってきたとき、主イエスはご自身のように(1:35)31「人里離れた所」で祈り休息をとるように促されました。が、人々はなおも一行について来たのでした。その数は44「五千人」以上だったといいます。

 こうした人々の求め、そして34「飼い主のいない羊のような有様」を主イエスは34「深く憐れ」まれ、再び働かれたのでした。やがて時も経ち、今日はもう終わりにしましょうと言う弟子たちに、主イエスは皆の食事を整えるよう求められたのです。

 41「五つのパンと二匹の魚」しかありませんでした。でも主イエスによってこれが分かたれたとき、42「すべての人が食べて満腹し」さらに屑と残りは43「十二の籠にいっぱいになった」のでした。神の国を思わせる祝福、そして分かち合いでした。それは、前段のヘロデの21「宴会」と並べると一層明らかです。主イエスの許では、誰もが分け隔てなく喜びにあずかったのです。

 これは世では味わえない遠い出来事なのでしょうか。いや、これはあなたがたが見聞きしていることなのだと主イエスは言われます(ルカ7:22)。今年42回目を数える平和七夕、被災者支援センター・エマオに集った8500人を超えるボランティア…と、私たちはその時々に神の国にも連なる不思議・恵みを味わっています。

 43「十二の籠」の分はいなかった人へと、さらに分かたれたことでしょう。これは尽きることのない神の恵みと、その分かち合いに加わりなさいとの私たちへの招きを意味しています。

「杖一本のほか何も持たず」

マルコによる福音書 6章6~13節
創世記 32章10~11節

 

 ガリラヤで神の国を宣べ伝えておられた主イエスは、使徒たち 7「十二人」をもその働きに派遣されました。その際 7「旅には杖一本のほか何も持」つなとあることは、マタイ・ルカ福音書の並行箇所で一切持って行ってはいけない(マタイ10:9~、ルカ9:3)と語られていることと較べると示唆的です。

 イスラエルはもともと遊牧民であり、杖は長旅を支え羊たちを守るため欠かせぬ道具でした。今日開いた旧約の箇所でヤコブは自らが辿ってきた旅を振り返り、11「かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は、二組の陣営を持つまでになりました」と神に祈っています。これは、かつて旅に出たときに彼がなした「神が私と共におられ、私が歩むこの旅路を守」ってくださいとの祈り(28:20~)と呼応しています。身一つで家を出、紆余曲折を辿りつつ、家族・財産をも得るに至ったこれまでの神の導き・守りを指して、彼は11「一本の杖」と言ったのです。ヘブライ11:21は、「ヤコブは死に臨んで…杖の先によりかかって神を礼拝し」たとの言葉で、彼の生涯を振り返っています。

 主イエスは、あなたに伴う神の導き・守りにこそ信頼せよと弟子たちを出発させたのではなかったでしょうか。ほとんど何も持たずに旅立てば、行く先々で人々の世話になることになります。使徒たちは神に導かれ伴われつつ他者と出会いを信頼を愛情を結び、神の国の喜びを分かち合いました。そしてこの旅路は、代々の神を仰ぐ者たちによって受け継がれ、今日に至っています。

7月のおたより

 今年3月、日本キリスト教団主催で「国際青年会議 in 京都」が開かれました。これは、2014年に開かれた「東日本大震災国際会議」の宣言文に述べられていた“若い世代の人々がこの問題を担い、リーダーシップを発揮できるよう努めます”の実現として開かれたものです。

 今回、海外11カ国から20名、国内から約50名の青年が集い、「エネルギー持続可能社会の実現を目指して」をテーマに4日間、熱心に語り合いました。冒頭の講演とプレゼンテーションは一般公開で行われ、約300名が耳を傾けました。会議の内容は、公式フェイスブック(https://www.facebook.com/uccj.kyoto/)で公開されています。

 青年たち自身がまとめたステートメントには、信仰に立ち、世界的広がりをもって、今日の原子力・放射能の問題に取り組むとの決意が述べられています。このたび、日本語・英語併記の報告書が作成され、当教会をはじめ教団の諸教会・伝道所に届けられました。興味のある方は、教団事務局にお問い合わせください。このことにより、今回の成果が世界の教会に広く共有され、次の一歩を刻む力となることを願います。

「立ち留まり憐れまれる方」

マルコによる福音書 5章21~43節
哀歌 3章22~33節

 

 今日の箇所では、違った状況に置かれた二人の癒しが組み合わされて語られています(マタイ9:18~、ルカ8:40~)。主イエスと共に死にそうな23「幼い娘」娘の許へと急ぐ22「会堂長…ヤイロ」でしたが、そこに25「十二年間も出血の止まらない女」が現れ主イエスは立ち留まるのです。父親ヤイロは気を揉んだことでしょう。やがて、娘の死を告げる知らせが届いたのです。が、主イエスは36「恐れることはない。ただ信じなさい。」と呼びかけられたのでした。

 優先すべきはどちらか。私たちもそのような惑いの中に日々を歩み、後悔することもしばしばです。主イエスは小さな者の求めに立ち留まられる、このことは破れある私たちへの慰めです。

 女性が癒された時、主イエスは30「自分の内から力が出ていった」と感じられたとあります。先日参加した東日本同信伝道会研修会で、マタイ9:36をめぐる神学者K.バルトの理解に触れました。ここの「深く憐れまれた」(スプランクニゾマイ)とは主イエスが群衆の苦しみをわが身に引き受けられたということであり、同じ言葉はマルコ6:34で五千人の給食の箇所にも出てきます。主イエスは十字架へ進まれるその犠牲をもって、私たちを悲惨から祝福へと導かれるのです。

 その憐れみをもって、主イエスは少女を死から起こされました。この御業の背後にも、主の十字架の犠牲があることを読み取るべきです。哀歌3章に、主の23「真実は…深」く、32「慈しみは深」い、23「それは朝ごとに新たになる」と歌われています。私たちは破れまた死から逃れ得ませんが、主の真実・憐れみはそれらを超えて深く大きく、この大いなる恵みが私たちを日々歩ませ行くのです。

「名はレギオン」

マルコによる福音書 5章1~20節
出エジプト記 33章12~17節

 

 「向こう岸に渡ろう」(4:35)と嵐のガリラヤ湖を渡って主イエスがやって来られたのは、この地にも主の救いを必要とする一人がいたからでした。 2「汚れた霊」に支配され激しく苦しみ、共同体からも見放されていた 3「この人」に主イエスは近づかれ呼びかけられました、 9「名は何というのか」。すると代わって悪霊が返事をしたのです、 9「名はレギオン」。

 ここには著しい対比があります。 9「レギオン」とは、6000人から成る軍団の名であるからです。 9「名」はその人の個性・人格を表します。一方、そうした個々人を記号化し数量化して目的のために利用するのが軍隊です。

 主イエスは 7「いと高き神の子」としてこの軍団にも比すべき悪霊を追い出す力を顕わされつつ、小さな一人に向き合おうとされるのです。

 今日の旧約には、主が出エジプトの指導者モーセを17「名指しで選んだ」とあります。主は圧倒的な18「栄光」を帯びる方でありつつ、私たちの名を呼び向き合われる方であることがここに示されています。

 一方、村人がこの一人の解放を共に喜ぶことができなかったことに(17節)、世もまた真に自由ではなく悪しき力に影響され縛られていることが示されています。世を自由と喜びへと解放される十字架と復活の主の働きは、今もなお続いていることを仰ぎます。

「自分の量る秤」

マルコによる福音書 4章21~25節
ホセア書 12章7~11節

 

 私たちは無意識の内に、無数の情報の中から必要なものだけを取捨選択して用いています。たとえば大勢が喋っているパーティの中でも必要な人との会話が成り立つ聴覚能力を、カクテルパーティー効果というのだそうです。

 さて今日の箇所で主イエスは、23「聞く耳のある者は聞きなさい」24「何を聞いているかに注意しなさい」と言われました。上記のこととはちょっと違いますが、あなたは何を大切なこと価値あることとして事を選びとっているのかとの問いかけでしょう。

 あわせて21「升」や24「秤」が登場しています。旧約に「あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。正しい天秤、正しい重り、正しい升、正しい容器を用いなさい。」(レビ19:35~)「公正な天秤、公正な秤は主のもの。袋のおもり石も主の造られたもの。」(箴16:11) と告げられていますが、この世は 8「欺きの秤を手にし、搾取を愛する」のです。私たちは何に耳を傾け、選びとり、尺度とするのでしょう。24「あなたがたは自分の量る秤で量」られる、との主イエスの言葉を私たちまた世は真剣に受け止めねばなりません。

 21「燭台の上に置」かれて部屋を明るく照らし出す21「ともし火」とは、世に福音として来られた主イエスご自身のことです(ヨハネ1:9)。このまことの光はまず辺境の地ガリラヤに灯されました。十字架と復活を経て地中海世界へ、そして代々の信仰者を通じて広く世界にもたらされました。そして22「隠」され22「秘められた」人と世の闇がすべて照らし出されるまで、その働きは続くと主は言われました。今も生きて働かれる主の言葉に聞き、その指し示しに歩む者でありたく願います。