「この人たち以上に」

ヨハネによる福音書 21章15~23節

 

 説教  栗原 健 教師 (宮城学院大学准教授)

 

 他人の信仰が素晴らしく見えて、“それにひきかえ自分は”と劣等感を持つことはないでしょうか。主イエスは人の信仰を“比較”されるのでしょうか。

 今日の聖書個所には“比較”に聞こえる言葉がありますが、その“比較”は私たちが思うものとは全く異なります。復活された主は、ペトロに15「この人たち(他の弟子たち)以上に私を愛するか」と尋ねます。ペトロには、他の人より抜きんでたものがあったのでしょうか。もしあったとすれば、それは、彼が三度「イエスを知らない」と公言してしまい、他の弟子たちよりも深い挫折に落ちてしまったということです(18:15~)。主は、そのペトロの失意の底にまで降りて来て下さいました。ペトロが他の者よりもイエスを愛したのではなく、他の者よりも大きく失敗したペトロに、主がより大きな愛を注いで下さったのです。

 私たちは、失敗をしても他者と自分を比較して失望してはいけません。主イエスの十字架は、神様が私たちのことを絶対にギブアップしないという約束のしるしだからです。主に感謝して進んで行きましょう。

6月のおたより

  “お知らせ” にも掲載しましたように、去る5月24日に開かれた日本キリスト教団東北教区総会「テロリズム集団その他の組織的犯罪処罰法(共謀法)の(衆議院での)強行採決に抗議する緊急声明」を採択、公表しました。がその後、この法案は参議院においても拙速な仕方で可決され、成立してしまいました。

 かつての治安維持法がそうであったように、“信教・思想・報道の自由”が奪われ、人と人との信頼・つながりが分断されることにならないかと危惧します。と共に、そうした事態を招かないために、私たち自身なお平和を祈り、求め続けていきたく願います。

 さてそうした中、出版社の社長さんからメールが届きました。2013年に天に召された当教会員、川端純四郎さんの論文や講演録を集めた『教会と戦争』の初版1200部の在庫がほぼなくなった、とのことでした。メールに「…品切にしておくのは寂しいですし、今の政治状況を見ても読み継がれるべき本です」とあるように、アジア・太平洋戦争期の教会への真摯な振り返り、そして今を生きる私たちへの指し示しが多く盛られた本です。

 おりしもこの本は、今行われている “キリスト教本屋大賞2017” にノミネートされてもいます。おそらく近く重版が決まることと思います。一人でも多くの方に読んでほしいと願います。

「恵みは砕かれた者に」

イザヤ書 57章14~19節
使徒言行録 3章1~10節

 説教  石川 立 教師 (同志社大学神学部長)

 

 昨日は当教会の母体である東華学校の開校130周年記念日でした。その開校で、東北伝道を目指す新島襄の願いが実現しました。東北は“白河以北一山百文”と揶揄されていました。また、戊辰戦争後、仙台はひどく疲弊していました。その地を新島は同志社英学校の分校の土地として選んだのです。打ち砕かれた弱者に向かう新島の眼差しの根底には、聖書に示されている神の恵みの方向性が反映していました。

 本日の聖書箇所には、聖霊降臨後の最初の奇跡がペトロを通して行われたことが記されています。このとき、生来足が不自由で、人に施しを乞うて生きている人が癒されました。神の恵みは、社会の底辺にいる人に集中しました。この人は癒されて喜び躍り、神の救いの証人となりました。

 “日本でいちばん大切にしたい会社”の一つ日本理化学工業は、障がい者雇用割合7割を誇っています。そこでは、障がい者は生きることや働くことの喜びを教えてくれる大切な存在です。

 戦後、孤児と知的障がい者のために近江学園を創設した糸賀一雄は、知的障がい者の真実な生き方が世の光となり、彼らを助ける我々がかえって、彼らを通して人間の生命の真実に目覚め救われる、と述べています(『この子らを世の光に』)。

 本日のイザヤ書の箇所には、神は打ち砕かれ、へりくだる者に命を得させる、とあります。神から命を与えられた人は、世の光となり希望となります。十字架にかかられたイエスが、打ち砕かれた最たる方であり、かつ、神の恵みの光です。

 私たちの周りに、運命に砕かれた人々、障がい者や弱者がいます。その人々の中に、私たちは恵みの光を認め、生命の真実に目覚めたい。いや、私たち自身が打ち砕かれ、へりくだる者でありたいものです。

子どもの日・花の日合同礼拝 「空の器は満たされる」

列王記下 4章1~7節

 

 聖書の時代、 2「油」はオリーブの実を絞って作られました。それは料理のほか、灯し火、薬や(ルカ10:34等)礼拝など(レビ8:10~等)にも用いる大切なものであり、そこに人々は神さまの祝福を見たのでした。

 預言者エリシャのもとに、一人の女性が助けを求めてやってきました。やはり預言者であった夫は 1「主を畏れ敬う人」でしたが気の毒なことに亡くなってしまい、残された家族も大きな 1「債権」のため危機に瀕していたのでした。もはや 2「油の壺一つのほか、…家には何もありません」というありさまだったのです。

 エリシャは 3「近所から…空の器をできるだけたくさん借りて来なさい」 4「その器のすべてに油を注ぎなさい」と不思議なことを命じました。でも女性が言われた通りにすると、 6「器がどれもいっぱいになる」まで油は途切れなかったのです。こうして家族は危機を脱したのでした。

 途切れることのない 2「油」は神さまの祝福を表していましょう。では 3「器」とは何でしょうか。それは神に造られた私たちのことでしょう(イザヤ45:9等)。神さまは不思議な恵みをもって、私たちを満たしてくださるのです。加えて色々なことに気づかされます。 3「近所から」の器が助けとなったように、私たちは互いに支え合うことができるのです。また別の何かで満たされていない 3「空の器」だから役に立ったのです。神さまの祝福を受けとめ、互いに支え合う私たちでありたく願います。

ペンテコステ礼拝 「弱いわたしたちをも」

ローマの信徒への手紙 8章26~28節
イザヤ書 41章8~10節

 

 主イエスの十字架、復活、昇天を辿った弟子たちは聖霊降臨を体験して大いなる力に満たされ、閉じこもっていた扉を開け放ち、福音を証しし宣教の業に出ていきました。最初のペトロの説教では、約3000人が洗礼を受けたとあります(使徒2章)。このようにペンテコステの出来事は教会の誕生日、そして世界伝道の出発点となりました。実に力強い聖霊の働きです。

 しかし、そうした力強さだけが聖霊の証しなのではありません。今日の箇所で伝道者パウロは、26「同様に、“霊” も弱いわたしたちを助けてくださいます」と語りかけます。続く26「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが」とは一見不思議な言葉と響きます。が、自らを遥かに上回る課題に取り囲まれ窮地に立たされたとき、私たちは何をどう祈ったら良いか分からなくなるのではないでしょうか。でも、生ける神の働きなる聖霊はそうした私たちの22・26「うめき」を分かつと共に、神へと27「執り成してくださる」のです。28「万事が益になるように共に働く」とは、楽観的な現状肯定論ではありません。26「弱いわたしたち」がすべてをご存じなる方の見守りと支えの内に置かれているとの安心の告白です(イザヤ41:9~10)。

 パウロは自らの持病との戦いの経験を振り返り、「力は弱さの中でこそ…発揮される」「大いに喜んで自分の弱さを誇ろ」う(Ⅱコリント12:9)と語りました。自らの弱さにも顕わされる神の恵みを彼は見出し、感謝したのでした。