「神の国の豊かさ」

マルコによる福音書 4章1~9節
イザヤ書 5章1~7節

 

 年に一度の教区総会が終わりました。その伝道の歴史から、東北には小規模な教会が多くあります。このことはかつて、マイナスの文脈で語られることが多かったように思います。が、2004年度を中心とした機構改革に取り組む中で、それは小さな町々にも教団の教会があって十字架のもと礼拝する群れがあるという東北に与えられた豊かさなのだと気づかされてきました。それは「1タラントン」かもしれないけれども「地の中に隠して」はいけない(マタイ25:14~30)、ご用のため共々に用いていこうと始められたのが、現在取り組まれている “宣教共働” の働きです。

 ガリラヤ湖のほとりで、主イエスは 3「種を蒔く人」の譬を語られました。ただ不思議なことに、この人はえらく気前よく種を蒔くのです(イザヤ28:24~25)。結果、 4「道端」 5「石だらけで土の少ない所」 7「茨の中」に落ち、実りに至らなかった種もありました。

 今日併せて開いたイザヤ5:1~を踏まえ、主イエスは12章でぶどう園に送られた一人息子の譬を語っておられます。大きな恵みを頂きつつ良き実りへと至らない世界をなお慈しみ救いへと導くために、主イエスは十字架で犠牲となられ復活を遂げられたのです。

 13節~に、種とは14「神の言葉」であると明かされています。 8「三十倍…六十倍…百倍」の実りに至れとの期待と祈りをもって、14「神の言葉」はこの世界の隅々に蒔かれています。その成長の恵みにあずかる私たちでありたく願います。

テロリズム集団その他の組織的犯罪処罰法 (共謀罪) の強行採決に抗議する緊急声明

5月24日に開催された「日本基督教団東北教区第72回教区定期総会」は、

下記声明を採択し、日本国政府・衆参両議院ほか関係機関に送付しました。

広く共有いただきたく思います。

 

 5月19日、国会衆議院法務委員会において強行採決された「共謀罪法」は、各方面で指摘されているように、尾行・盗聴・通信傍受、監視・内通を合法化し、市民社会の土台をなす精神の自由を制限し、言論・集会結社・信教の自由が脅かされる密告社会を作りだす恐れのある悪法です。

 この法は、1925年制定「治安維持法」と同じイデオロギー的構造を内在させています。治安維持法により、1928年3月1日約1600名に亘る日本共産党員などへの大弾圧が加えられました。キリスト教会においても治安維持法のもとで多くの牧師が検挙され、逮捕され、獄死しました。教会が閉鎖に追い込まれ、信仰の自由が踏みにじられた歴史を忘れることができません。

 安全保障関連法の強行採決、世界に例を見ないわが国の平和主義憲法の要である9条に「自衛隊」の存在を明記する改憲案の策定、平和な島での安全な暮らしを求める沖縄住民の意向を無視した辺野古新基地建設の強行などといった一連の緊迫した情勢の中で、戦争を遂行し得る路線に道を開く「共謀罪法」の制定に向けての不穏な動きは、まことに憂慮に耐えない事態であり、市民的幸福と社会的公平と正義がないがしろにされる欠陥社会を生み出す危険性を孕んでいます。

 言うまでもなく、思想・信条・信教の自由は人類の普遍的な権利として何ものからも侵害されてはならないものです。神の被造物としての尊厳を与えられている一人ひとりの人間存在が、持続可能な社会を形成していくためにも、各自が自由に語り、互いに協議し、意見を交換し合える社会基盤を壊してはなりません。1967年復活主日における日本基督教団戦責告白「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」においても表明されているように、キリストの体としてこの世に存在する教会には、神の歴史支配を見極め、警鐘を鳴らす預言者的な「見張りの使命」が与えられており、この法の行方は私たちキリスト者にとって重大な関心事です。

 よって、私たち一同は、看過しえない今回の強行採決に対し強く抗議するとともに、衆議院・参議院で廃案にすることを強く求めます。

      2017年5月24日

                       日本基督教団東北教区第72回教区定期総会

「全き人」

マルコによる福音書 3章20~30節
創世記 6章9~22節

 

 ガリラヤで宣教を始められた主イエスのもとには大勢の人、殊に病人や悪霊に取りつかれた人(1:31)、罪人とレッテルを貼られた人々(2:16)が癒しまた赦しを求めて集まってきました。一方、それを快く思わない者たちは主イエスを激しく批判しました。主イエスはそうした者たちを23「呼び寄せ」られた上で、28「人の…罪や…冒涜の言葉も、すべて赦される」と神の大いなる憐れみと赦しを宣言されたのです。

 では続けて語られた29「聖霊を冒涜する者は永遠に赦され」ない、とはどういうことなのでしょう。29「聖霊」とは神の生ける働きです。その神の赦しと招きの実現のため主イエスはこの世界に来られ、十字架で犠牲となり、復活を遂げられました。29「聖霊を冒涜する」とは、この招きを不必要だとして拒絶することです。私たちは、そしてこの世はそれほど立派で大丈夫なのでしょうか。

 ノアは 9「全き人であった」(口語訳)と記されますが、後には酒に酔って醜態を晒してもいます(9:21)。聖書の言う“全き”“完全”とは助けなしに自立できることではなく、 9「神と共に歩」むことを指しています(フィリピ3:12~15)。

 エゼキエル18章で、神は人間の罪を厳しく指摘しつつ「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」(31~32節)と呼びかけておられます。この招きに応え、神と共に、隣人と共に歩む道を進みたく願います。

5月のおたより

 当教会の前庭に “新島襄ゆかりのカタルパ” を植樹してから、約2年経ちました。冬になると葉をすっかり落とし、春になってもなかなか芽吹かないのでドキドキしますが、無事2回目の冬を越しました。5月に入ってから新芽が目に見えて伸び始め、今はこんな様子になりました。幹もだいぶしっかりしてきました。

 さて先月お知らせしたとおり、来月6月17日(土)に同志社大学が主催しての「同志社フェア in 仙台」が開かれることになり、翌18日(日)の当教会主日礼拝では、石川立同志社大学神学部長が説教を担当くださることになりました。当日は、上記フェア参加者有志も礼拝を共にされます。貴重な機会に、どうぞおいでください。

 

石川 立 同志社大学神学部長 礼拝説教

6月18日(日) 10:40~   仙台北教会 礼拝堂

 

= 石川 立 教授  プロフィール =

 1953年生まれ。東京大学文学部哲学専攻卒業、同志社大学神学研究科博士前期課程修了、ミュンヘン大学神学研究科博士課程修了。神学博士。

 同志社大学神学部教授。現在、神学部長。

 専門は、旧約・新約聖書解釈、聖書神学。聖書を根源的な事柄を指し示す証しの書ととらえ、聖書を通して内的真理との出会いを目指しておられる。また、ことだま(言葉と霊性)の観点から、古代・中世神学者、宗教改革者などの著作やキリスト教以外の宗教の経典的な作品に当たり、今日の近代主義、合理主義、啓蒙主義を克服することも課題とされている。

 共著、『聖書 語りの風景-創世記とマタイ福音書をひらいて』 (キリスト新聞社、2006年)。

「真ん中に立ちなさい」

マルコによる福音書 3章1~6節
ゼカリヤ書 8章1~9節

 

 復活の主に導かれて(16:7)、主イエスのガリラヤ宣教をもう一度辿りたく思います。

 ルカ・ヨハネ福音書は、復活の主が恐れていた弟子たちの「真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」と記します(ルカ24:36、ヨハネ20:19・26)。恐れ、閉じこもる私たちの限界を復活の主は突破され、平和を告げられるのです。

 その主イエスはカファルナウムの 1「会堂」での礼拝の場で、 4「律法」に縛られ弱者をあたかも道具化するような人々の頑なさを悲しみ 5「怒り」すら露わされつつ、その人に 3「真ん中に立ちなさい」と呼びかけられました。さらに9:33~にはやはりカファルナウムで、一人の子どもを「真ん中に立たせ」(36節)小さな一人を受け入れることの大切さを教えられたとあります。復活のみ業をもって私たちに平和を告げられる主は、小さな一人そして私たちをも「真ん中」に立たせその命を十二分に生きていけと祝福されるのです。

 B.C.6世紀の預言者ゼカリヤは、捕囚帰還後の荒廃の地に主は 2「激しい熱情」を注いで自らその 3「真ん中」に住まわれ、そのとき都の広場には 4「老爺、老婆」 5「わらべとおとめ」らの笑い声が戻ってくると告げました。この主のみ旨を実現すべく主は今も生きて働かれ、私たちをも召しておられることを仰ぎます。

「復活の主に導かれてガリラヤへ」

マルコによる福音書 1章29~39節
ヨシュア記 20章1~8節

 

 マルコ福音書は主イエスのガリラヤ宣教に始まり(14節)、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。…そこでお目にかかれる」(16:7)との復活を指し示す言葉で終わります。主イエスの言葉、働き、そして十字架を辿ってきた読者は、もう一度冒頭に帰り、復活の主に伴われてガリラヤ宣教へと向かうべく編まれているのだとの説があります。

 ガリラヤはイスラエル十二部族が住み着いた地域で北端の辺境の地であり、戦乱にあってはたびたび異邦人の支配下に置かれました。旧約の時代、過失で人を殺してしまった人が復讐から逃れるための 2「逃れの町」が6つ定められたとき、ガリラヤの町がその最初に挙げられました(ヨシュア20:7)。そのようなことからガリラヤは軽んじられ、蔑まれていた地方でした。

 が、主イエスはその地から宣教を開始され、「神の国は近づいた」(14節)と宣言されたのです。今日の箇所の熱に苦しむ30「シモンのしゅうとめ」、32「病人や悪霊に取りつかれた者」の姿は、数々の課題に生きる人々の現実を表しています。その只中に主は復活の力を帯びて帰ってこられ、その御業を揮われるのです。人々が主イエスを留めようとしたとき、主は「…他の町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。」と出発されたとあるように、復活の主は今日もその御業を進めておられることでしょう。そして、私たちも共に歩み働くべく招かれています。