4月のおたより

 当教会は、仙台にあったキリスト教主義学校「東華学校」の教職員によって創立されました。校長は新島襄であり、事実上同志社の分校のような学校でした。時代の荒波の中、残念なことにこの学校は5年間で廃校となりました。
 今年は「東華学校」開校から130周年にあたります。これを記念して、同志社大学が主催しての「同志社フェア in 仙台」が開かれることになりました。
 第一部は毎年開催されている遺址碑碑前祭、第二部は「東華学校を語る」との主題のもとパネルディスカッションが開かれます。どなたも参加できます。当教会にも連なる歴史をふりかえる機会に、どうぞご参加ください。申し込みは必要ありません。

 

= 同志社フェア in 仙台 =    6月17日(土)

◇ 第一部  東華学校遺址碑碑前祭 ◇
13:00 ~ 13:30  連坊小路 JT仙台支店前

◇ 第二部  パネルディスカッション 「東華学校を語る」 ◇
14:30 ~ 16:00  仙台駅前AER(アエル) 21階
石川 立  氏 (同志社大学神学部長)
一力 雅彦  氏 (河北新報社代表取締役)
佐々木 哲夫  氏 (東北学院院長)
菅野 正道  氏 (仙台市博物館主幹・学芸普及室長)

https://www.doshisha.ac.jp/alumni/doshisha_fair/doshisha_fair.html
に詳しい案内があります

「主の派遣を身に帯びてこの今を生きよう」

ヘブライ人への手紙 10章19~25節
イザヤ書 52章7~10節

 

 今日開いたヘブライ10:23は2017年度宣教活動計画案の聖書箇所、説教題は主題です。

 イスラエル人の神殿には一般人の立ち入りが制限された19「聖所」があり、神が顕現するとされる最奥の至聖所には大祭司が年に一度しか入ることができませんでした(9:7)。が、主イエスは十字架の犠牲によって神に連なる20「新しい生きた道」を開いてくださったのだから(9:11~)、信仰者は主イエスと共に安んじて神のみ前に進み出ることができる、と著者は語ります。

 神と共に歩むことができるとのこの23「真実」な23「約束」を帯びて、私たちは生を与えられ、それぞれ具体的な時と場所へと派遣されています。そこには様々な課題もまたありますが、この“今”は主がついにはもたらされる完成の25「かの日」につながっていると聖書は語ります。そのことを礼拝において確かめ、23「希望を…保ち」24「愛と善」に生き25「励まし合」いつつ今を歩もうと呼びかけられています。

 当教会は創立から130周年を数えました。代々の信徒らが恵みと使命を覚えてそれぞれ派遣された生を歩んだように、私たちもこの年の歩みに向かい行きたく願います。

「ヨナのしるし」

マタイによる福音書 12章38~42節
ヨナ書 1章1~3節

 

 38「しるし」とは、平たく言えば“証拠”です。すでに28「神の霊で」人々を解放しておられた主イエスになお、人々は救い主としての“証拠”を求めたのでした。

 これに対し主イエスは、与えられるのは39「ヨナのしるし」だけだと言われました。それはどういう意味だったでしょう。

 ヨナは旧約の時代、退廃の都ニネベに神の裁きを伝えるべく神から遣わされた人物です。ヨナは大任に尻込みして別の方向に逃げ出そうとしますが、神の手を逃れることはできず、ついにヨナは「三日三晩魚の腹の中で」(ヨナ2:1)過ごすことになったのでした。40「三日三晩」を共通項として、主イエスはご自身の十字架の死と復活を指し示されたのです。救い主の38「しるし」とは、人々の思いとは全く違う形で与えられたのでした。

 魚の腹の中から助け出されたヨナは思いなおしてニネベへと向かい、主の裁きを告げました。すると41「人々は…悔い改め」、主は赦しを与えられました。するとヨナは、一体私の役回りは何なのかと怒ったのです。このヨナに主は一本のとうごまのエピソードを与えて、物語は閉じられます(ヨナ書4:4~)。

 ヨナは逃げ出したり怒ったり、本当に人間臭い人物です。でも主は彼を導き用いられ、彼もまたその度に変えられていくのです。主イエスの十字架と復活は、そのような破れを抱えた私たちに向けられた大いなる赦しと招きの出来事にほかなりません。むしろ、変わろうとしない39「よこしまで神にそむいた時代」の罪が指摘されています。誤ったり失敗しても、私たちは希望と祝福へと再び歩み出すことができます。主の慈愛の内に置かれているからです。

イースター礼拝 「あしたは来たる」

ヨハネによる福音書 19章38節~20章14節
サムエル記下 23章1~5節

 

 1「朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」とあります。まだ闇が支配するこの 1「暗」さは、敬愛する主イエスを失った彼女の心の内をも示していましょう(ルカ8:2)。その前19:39~には、39「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」(3:1~)らが主イエスを墓に納めたとあります。彼が39「夜」に主イエスを訪ねたのは、ファリサイ派としての体面を気遣ったからでした。さらにイスカリオテのユダが主を裏切ろうとする場面でも「夜であった」(13:30)と記されるように、これらの闇は世と人を縛る罪の支配を表しています。

 墓ではすでに 1「石が取りのけ」られ、他の二人の弟子も空であることを確認しましたが、 9「復活」を彼らは 9「まだ理解」できないでいたのでした。この間、闇は黎明へと変化していたでしょう。でも彼らがほんとうに希望の光を与えられたのは、復活の主ご自身に語りかけられてからでした(13節~、19節)。

 こうして彼らは、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(12:46)と以前語られた主の言葉を思い起こしたことでしょう。罪の力は昔も今も世と生きる者を縛り、闇に押しとどめようとします。私たちにこれを打ち破る力はないかもしれません。が、復活の主はこれを破り、希望の光をもたらされるのです。“平和の光のくまなく世をてらす、あしたは来たる”(讃美歌403)、こう共々に歌いつつ与えられた今を歩み行きたく願います。

「記念として伝えられるだろう」

マルコによる福音書 14章1~9節
イザヤ書 55章8~13節

 

 1「過越祭と除酵祭の二日前」との言葉は、主イエスの十字架が差し迫ったことを指し示しています。これらの祭は出エジプトの解放を記念するもので、殊に 1「過越祭」は主がエジプトに裁きの災いを下された際に犠牲の小羊の血を印としたイスラエル人の家は守られた故事(出エジプト12章)を想起するものでした。今や主イエスは、世と人々を罪の呪縛から解放するために自らの命を分け与え犠牲の血を流す十字架に進もうとされていたのでした。

 その時、一人の女性が 3「純粋で非常に高価なナルドの香油」の壺を壊し全ての香油を主イエスの頭に注ぎかけたのです。 5「300デナリオン以上」とありますから、労働者のほぼ1年分の賃金に匹敵します。見ていた者は 4「無駄遣い」だと憤慨しましたが、主イエスは 8「この人は…わたしの…埋葬の準備をしてくれた。…福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」と言われたのです。

 この女性は主イエスの十字架の死を知っていた訳ではないでしょう。何らかの理由から主イエスに感謝を表すそうと、ただ持てる限りの愛を注いだのです。もっと良い方法があるはずだと言うことも可能です。でも、世と人はその業と力で自らを希望と平和へと解放することはできなかったのです。それゆえに主イエスは十字架へと進まれたのでした。

 世と私たちに対するこの主のみ業に、私たちは何をもって応え得るのでしょう。それはそれぞれの愛と真実を注ぐことにほかならないと、主イエスは告げておられるのだと思います(イザヤ55:13)。