クリスマス礼拝 「栄光の回復のため」

ローマの信徒への手紙 8章18~25節
創世記 9章9~17節

 

 C.ウェスレーが作詞した讃美歌262の原詞最終節は、“一度は失ったあなたをさあ取り戻そう…あなた自身のすべてに参与しよう” と歌います。また日本語3節の“死すべき人”の部分は、加えて“大地の子をすべて”と歌われています。ここには、贖罪によるすべての聖化というメソジスト教会の特徴がよく表れています(川端純四郎『さんびかものがたりⅡ』)。

 洪水の後の再契約の際、主なる神はすべての生き物と契約を結ばれました(創9:10)。これは、人間が命・大地について正しく責任を守っているか、動物たちが言わば監視役として召されたことを意味しています。主イエスが飼い葉桶に降誕された際、そこにいた動物たちもまたその栄光に浴しました。それは主の救いが、ついにはすべての被造物に及ぶことを指し示していましょう。

 「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(詩19:2)、「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。」(イザヤ43:7)と、世界と命は神の祝福に置かれ、その栄光に帰せられるべきものであると告げられています。

 しかし人間の罪への堕落はそれらを破壊し、世界と命を20「虚無」に服させるのです。その現実の中で、人間も動物も環境も22「被造物がすべて…共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」のが今という時だと語られています。なぜ22「産みの苦しみ」なのか、それは主イエス・キリストの降誕そして十字架と復活によってすべては栄光へと再び結ばれるとの約束がすでに与えられているからです。

2016 クリスマスメッセージ

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 振り返って5年前の震災発生からしばらく、町からいろんな音が消えたように感じたのを覚えています。停電だったこともありましょうが、大きな声や音をあげることなく皆が日々を過ごしました。私たちが再び歌声をあげられるようになったのは、いつ頃だったでしょうか。

 上の絵は、15世紀フランドル派の画家H.グースの代表作といわれるポルティナーリ三連祭壇画の中から“キリストの降誕”の一部です。降誕された幼子キリストを羊飼いたちが拝し、天使たちが賛美しています。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告知された羊飼いたちは、駆けつけた家畜小屋でキリストを見いだし、この救い主が自分たちのために来られたことを確信したのでした。なぜなら家畜小屋は、粗野で不潔だと日頃疎んじられている羊飼いたちも心おきなく入っていける場所だったからです。

 やがて彼らは待ち受ける仕事へと再び帰っていきましたが、帰路にある彼らの口には賛美の歌声があふれていたと福音書は記します。このとき与えられた歌声は、彼らの中で日々の課題をも乗り越えて歩み行かせる力となったことでしょう。

 皆の口からため息や不安ばかりが多くのぼる、今日の世界のあり様です。しかしその世界の悩みを共に分かち、希望を灯すためにキリストはおいでになりました。課題を越え行く歌声を私たちも与えられ、共々に歌う者とされたい、そう願います。

「万軍の主の熱意」

コリントの信徒への手紙 一 1章18~25節
イザヤ書 9章1~6節

 

 カトリックほかで旅人の守護聖人とされているクリストフォロス(聖クリストファー)の物語をご存じでしょうか。キリストに仕えることを決意した大男レプロブスは、隠者から人々に仕えることがその道だと教わり、急流の川渡しの奉仕を始めます。あるとき小さな男の子に頼まれ川へと入っていくと、次第に肩の子は重くなりレプロブスは倒れんばかりになりました。やっとのことで渡り切ったところで、その子は自らがキリストだと明かしたのでした。それは担った全世界の罪の重さだったのです。ここからレプロブスは、“キリストを背負った者”との意味のクリストフォロスという名を頂いたのでした。

 B.C.8世紀、預言者イザヤは生まれ来る 5「ひとりの男の子」によって 1「闇」に 1「光」が与えられ 6「平和」が実現すると語りました。しかし、神ご自身 5「みどりご」となって降誕を遂げられるとは、この言葉を預かったイザヤも思いもよらなかったのではないでしょうか。

 天から地へと降られた主イエスは人々に仕える者となられ、さらには十字架の死へと降られたのです(マルコ10:45)。この一見21「愚かな手段」にこそ、何としてでも世と生きる者を救い出すとの神の意志が顕わされていると伝道者パウロは語りました。 6「万軍の主の熱意がこれを成し遂げ」たのです。

クリストフォロス - 幼な子キリストは、世界を現す“宝珠”を手にしています

12月のおたより

 クリスマスに際し、教会学校や幼稚園では“クリスマス・ページェント”(聖誕劇)が行われます。ページェントとはもともとページをめくるように進む劇や行列を意味し、クリスマスにはイエスさまのお誕生の物語が演じられます。

 マリアとヨセフ、宿屋さん、救い主誕生を知らせた天使、告知を受けた羊飼いと羊たち、不思議に輝いた大きな星、その星に導かれ宝物を捧げにやって来た博士たち…、そうした役を割り振ってみんなで劇をつくりあげます。

 ずいぶん以前のことでも、ページェントで自分が演じた役どころは不思議に記憶しているものです。今月、当教会では新婦がもと当教会幼稚園卒園児という結婚式が行われました。“この礼拝堂でページェントをしたんです。わたしは天使の役でした”と懐かしそうでした。

 当教会にはもう幼稚園がないので、教会学校の子どもたちが23日の「こどもクリスマス」・24日の「イブ礼拝」にページェントを行います。最近は子どもも少なくて大人が配役にかり出されることもありますが、実際に演じてみると理解も思いも深まって、なかなかいいものです。さて、あなたもいかがですか?。

ページェントの道具から、博士が捧げる宝物、黄金・乳香・没薬- ちょっと修繕した方がよさそうですね

「クリスマスの物語のはじまり」

ルカによる福音書 2章8~20節
詩編 113編1~9節

 

 A.D.はラテン語のAnno Domini(主の年)の略であり、主イエス・キリストの誕生から歴史が改まったことを意味しています。高くおられる主なる神が 6「低く下って天と地を御覧になる」のみならず、ご自身地へと降誕され歴史を希望の完成へと導く新たな時が始まったからです。

 寒村ベツレヘムで主イエスが誕生された時、それを最初に告知されたのはその地方の羊飼いたちであったとルカ福音書は記します。羊飼いはイスラエルの父祖へと遡る名誉ある職でしたが、実際には粗野で不潔だと疎んじられていました。家畜小屋の12「飼い葉桶」に寝かされた主イエスにまみえ、11「今日…あなたがたのために救い主がお生まれになった」との知らせは本当だったと彼らは喜びにあふれたに違いありません。

 羊飼いたちは厳しい日々の生活へと再び20「帰って行」きましたが、その口には20「賛美」の歌がありました。これが、クリスマスの物語の始まりでした。

 輝く星と天使、マリアとヨセフ、羊飼いや学者たち…、ページェントの情景でクリスマスの物語は終わったのではありません。 6「低く下って…弱い者を…起こし、乏しい者を…高く上げ、自由な人々の列に…返してくださる」、その物語は今にも及んで私たちをも支え導いています。

「その道筋をまっすぐにせよ」

イザヤ書 40章3~5節
ルカによる福音書 1章67~80節

 

 G.F.ヘンデル作曲のメサイアは序曲の後、イザヤ40:1~5が歌われます。 3「広い道」が“highway”と歌われているのが印象的です。主が来られてみ業を顕わされる、だから 3「荒れ野に道を備え」「曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らに」(ルカ3:5)せよというのです。

 B.C.6世紀第二イザヤはこう呼びかけ、亡国とバビロン捕囚に打ちひしがれていた人々を慰め力づけました。 2「罪」は償われてついに故国へ帰るのだ、だから顔を上げよと低くされた人々を高めたのでした。

 それから500年余を経て、この言葉はもう一度覚えられることとなりました。この世界に降誕され救いを確立される主イエスに、76「先立っていき、その道を整え」る者として洗礼者ヨハネが立てられたからです。彼の働きは、民族の誇りや財力で高ぶっている思いを砕き悔いて開かれた心を備えることでした(3:3~)。高いものを低くしたのです。

 3「わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」との言葉を、今日の私たちはどのように聞くべきでしょう。経済や安定ばかりを追及し命や人権を顧みない国や世のあり様、格差の放置、心の荒廃…と、その傲慢さ頑なさを低くせよと告げられているのではないでしょうか。信仰者と教会は主のみ業を指し示すことにおいて、洗礼者ヨハネと同じ働きを託されています。高慢も卑下も、それは主から与えられた命を不当に見誤ったあり様の両面です。野の花・空の鳥を見よとの主イエスの言葉(12:22~)を胸に、私たちもまた語り働いていくべく召されています。