「『主は我らの救い』と呼ばれる」

エレミヤ書 31章10~16節
ペトロの手紙 二 1章16~19節

 

 讃美歌243 “闇は深まり” は、ナチス・ドイツ政権下にベルリンで生きた詩人 J.クレッパーの作詞によります。繰り返し歌われる“闇”には、彼自身が味わった苦難・苦悩が響いています。

 2人の娘をもつユダヤ人女性と結婚した彼は、ナチスによる迫害によって次々と職を、また作品を発表する自由も奪われていきました。そうした中、発表された作品はいずれも緊張と深さをたたえています。1939年、長女をイギリスに出国させることに成功します。残った家族3人が強制収容所送りとなる危険が迫る中、クレッパーはあらゆる道を探りますがそれは潰え、3人は1942年12月自死を選んだのでした。最後の日記には部屋に置かれたキリスト像に触れて“私たちの頭上には、祝福し今も闘っておられるキリストが立っておられる”と、神への信頼を固く抱きつつも死を選びとらざるを得なかったその思いが示されています。(クレッパーの生涯は、宮田光雄 『いのちの証人たち-芸術と信仰』 に纏められています)。

 今日の箇所の預言は、戦乱で10「廃墟」となった都エルサレムの「獄舎」の中で語られたの ものです(1節)。すべてがなぎ倒された荒廃を目の前にしつつ、主に導かれてエレミヤは、そこに15「正義の若枝」が生え出てついには15「公平と正義」がこの国に宿るようになると告げたのでした。

 この後500年余を経て降誕された主“イエス”の名は、16「主は我らの救い」を意味します。混迷また闇が深まる中にも、この世界を捨てることなく希望に導くとの主の約束が私たちを支え導くことを(Ⅱペトロ1:19)このアドベント第1週に心に留めたく思います。

「御旨を求めて」

使徒言行録 15章1~6節
列王記上 3章4~14節

 

 A.D.48~49頃、エルサレムで教会会議が開かれました。エルサレム教会とアンティオキア教会の間で、 1「割礼」さらには律法を守ることがキリスト者の前提となるのかをめぐって 2「激しい意見の対立と論争」が起こったからでした。

 無意味な対立は避けるべきです。が、教会が立ち成長していくために通らねばならない対立もあります。そのような時、古来教会は会議によって道を選び取ってきました(教団教憲第4条)。当たり前に見えつつ、ここには主に結ばれた誰もがみ旨を訊ねる資格と責務があることが指し示されています。私たちは罪というズレを抱えて歩んでいます。毎週の主日礼拝も、皆で形づくる輪の中心に主においで頂き、み旨を求める共同の業だということができます。

 広く知られたソロモン王の知恵は、 9「正しく裁き、善と悪を判断する子ができるよう…聞き分ける心をお与えください」との祈りを主が顧みられたことによるとあります。私たちもこの祈りを共にせねばならないでしょう。

 エルサレム会議は、誰もが主イエスの十字架の大きな恵みによって救われるのであって律法の軛は必要ないことを確認しました(10~11節)。加えてパウロは、エルサレム教会はユダヤ人伝道に向かいアンティオキア教会が異邦人伝道に向かうというパートナーシップが構築されたと報告しています(ガラテヤ2:9)。主の導きによって、会議は実りを得たのでした。

11月のおたより

 11月の第4木曜、アメリカでは感謝祭(Thanksgiving Day)がまもられます。メイフラワー号でプリマスに入植した清教徒たちが厳寒と飢餓で危機的状況になった際、先住民たちに助けてもらい、感謝して共なる食卓を囲んだことに始まるとの伝説による祝日です。

 さて当教会では、バザーを行う11月第2主日に大人と子どもが合同で収穫感謝礼拝をまもっています。またこの日は、七五三の日に近いことから、しばらく以前より “こども祝福” をあわせて行うようになりました。

 集う子どもたちに真ん中に立ってもらい、神さまとみんなから愛されて豊かに成長しゆくようお祈りし、讃美歌を共に歌います。その後、子どもたちは教会からのプレゼントとして、窓をあけると小さなチョコレートが出てくるアドベント・カレンダーを頂きます。

 子どもも大人もみんなが笑顔になる、秋のひとこまです。

収穫感謝合同礼拝 「仲直りの前の晩に」

創世記 32章23~32節

 

 兄弟げんかはよくあることでしょうが、ヤコブとエサウの場合は特別でした。父イサクの目がかすんできたのをいいことにエサウになり代わったヤコブは、本来兄が受け継ぐべき祝福を騙し取ってしまったのです。そのためエサウにひどく憎まれ、ヤコブは家を出ることになったのでした。

 それ以降、兄との仲直りがヤコブの人生最大のハードルとなりました。20年以上がたち家族も増えたヤコブは、ついに兄との再会を決意します。使者を立て贈り物を用意しとあらゆる準備をしつつも、なお「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。」(32:12)と祈らざるを得ないヤコブでした。

 その夜、一人野宿したところに何者かが現れ、夜通しヤコブと格闘したのです。それは、主なる神ご自身が生涯最大のハードルに挑むヤコブと共にあり、その苦闘を共にしてくださった出来事にほかなりませんでした。

 夜が明けた時、ヤコブは腿の関節が外れ、立ち上がることもできない状態でした。が、相手はヤコブの勝利を告げたのです(29節)。

 ついにその日再会を果たした時、兄エサウはヤコブを抱き締め共に泣き、二人は和解を果たしました。神の支えにあって、ヤコブはハードルを越えたのです。人間の知恵も力もついえてなおそこにある神の臨在とその慈しみが、私たちを生かし立ち行かせることをこの出来事は教えてくれます。

召天者記念礼拝 「神の恵みにゆだねられて」

使徒言行録 14章21~28節
エレミヤ書 1章4~13節

 

 バルナバとパウロはキプロス島・小アジアを巡っての第一伝道旅行を終え、アンティオキア教会に帰着しました。先々で苦労・苦難を味わいながらも、27「神が…共に」おられ21「福音」を広く分かち合い得たその喜びを二人は27「報告した」のでした。

 ここアンティオキアは26「今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である」とは、面白い表現です。二人に働きが委ねられたのではなく、二人が働きにもしくは神の恵みに委ねられたのだと言うのです。

 今日は召天者記念礼拝です。記念する諸兄姉は派遣されたその生涯を歩み通し、26「成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所」へと帰られたのです。神は一人一人にその人ゆえの働きを備えられ、恵みと共に遣わされます。私たちは与えられた日々において、喜びや苦労も味わいながら恵みを糧としつつその働きを成し遂げていきます。

 エレミヤは春の兆しを告げる11「アーモンドの枝」を見て、主が歴史そして私をも12「見張っている」ことを知らされ、預言者という自らに与えられた働きへと立っていきました。今日記念する諸兄姉も、主の見まもりに支えられ、また応えてその生涯を歩まれたお一人お一人です。