「この事実の証人」

使徒言行録 5章17~32節
イザヤ書 46章1~4節

 

 ペトロら使徒たちは捕らえられ脅しつけられても、繰り返しエルサレム神殿の境内に現れ、主イエスの福音を語り続けました(311~、512~・25)。三度目の捕縛・尋問の場で、ペトロらは29「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」ときっぱりと答えたのでした。

 荒波にうろたえ主イエスに泣きついた弟子たち(ルカ824)、十字架を前に切に祈られる主イエスの傍らで眠り込んだ弟子たち(同2245)、主イエスを知らないと言ってしまったペトロ(同2261)を、何がここまで強くしたのでしょう。

 それは20「命の言葉」でした。ヨハネ福音書が告げているように、神の「言は肉となって、私たちの間に宿られた」(ヨハネ114)のです。主イエスが十字架と復活を遂げて31「救い主」となられたこと、この世に現れた20「命の言葉」が弟子たちを力強く立たせたのでした。弟子たちが語った32「わたしたちはこの事実の証人」との言葉の、32「事実」の原語は20「言葉」と同じレーマです。

 信仰者は神が顕わされる出来事・み言葉によって担われ、またその言葉を証しします。旧約の預言者は、偶像はいくら立派だとしても主なる神のように私たちを担い得るものではないと告げています(イザヤ461~)。

 聖霊によって強くされ、福音の証人とされたといっても、ペトロらはなお欠点を抱えた人間でした(1014、ガラテヤ211)。しかし主はそうした者をご自分の証人とされ、福音は世界へと広がっていきました。その20「命の言葉」は今、私たちにも及び、担い、導いています。

子どもの日・花の日合同礼拝 「言葉が通じなくなるお話」

創世記 11章1~9節

 

 外国に出かけると言葉が通じないために、大変な目にあったり愉快な体験をします。逆に、言葉の壁を超えて思いが通じたときはうれしくなります。また、国内でも言葉が分からず、困ってしまったこともあります。そして意味はわかっても、その言葉を受け入れず争い合う愚かさを人間は繰り返してきました。

 “バベルの塔”のお話は、なぜ 7「聞き分けられ」ない言葉が生まれたかを語っています。 4「…天まで届く塔…を建て、有名になろう。そして…散らされることのないようにしよう」と、自分が一番になりついには神に成り代わろうとしたとき、互いの言葉が通じなくなったのでした。他者を押しのけての自己主張は、意思疎通を阻害し、ついには孤立へと至ることがここには語られています。

 礼拝の終わりにあるのは派遣、 4「散らされ」ていくことです。私たち一人一人の歩みと働きは異なります。一番になることではなく、与えられたステージで自らを発揮し元気に歩みゆけと、私たちは神さまから押し出されていくのです。

6月のおたより

 この8日(水)、「虹の集い」で総勢11名が秋保に出かけました。この集いは高齢者と一人暮らしの方の会で、年に二度くらい楽しく集まる機会をもっています。

 教会で会を持つことが多いですが、ときどきはお出かけもします。昨年はお花見に出かけ、今年は広大な牧草地と花壇が美しい岡崎牧場を訪れました。ちょうどよい日差しと風を感じながら讃美歌を歌い、み言葉を味わい、礼拝を共にしました。森から響くホトトギスの余韻ある鳴き声が印象的でした。

 のち屋外でおべんとうを頂き、E姉が主宰される「グリーンフィールド・えむ」ご自慢のハーブティーやパウンドケーキに舌鼓を打ちました。

 福音による慰め・支えがより大切になる高齢期に、なかなか教会に行くことができなくなることは残念なことです。なかなか難しい課題ですが、こうした機会や、「南地区礼拝」、在宅聖餐などを通して、主にある恵みを共々に分かち合っていきたく願っています。

 次回の「虹の集い」は、秋口に教会を会場に開催予定とのこと。お楽しみに。

東華学校碑前祭 ・ 水谷誠教授説教

 当教会は、今から129年前、仙台にあったキリスト教主義学校「東華学校」の教職員によって創立されました。校長は新島襄であり、事実上同志社の分校のような学校でした。時代の荒波の中、残念なことにこの学校は5年間で廃校となりました。今も仙台市中心部連坊小路に立つ遺址碑が、その歴史を伝えています。

 来る6月11日(土)、同志社校友会宮城県支部がその前で、「碑前祭」を行います。当教会も協賛に加わっており、どなたも自由に参加できます。ご興味のある方は、どうぞおでかけください。

  <東華学校遺址碑碑前祭> 

     6月11日(土)14:30~  連坊小路 JT仙台支店前

 

 なお、碑前祭に同志社から出席される水谷誠先生(同志社理事長、同志社大学神学部教授)が、翌日曜、当教会の主日礼拝にて説教くださることになりました。こちらもどうぞおいでください。

 <水谷誠教授説教> 

     6月12日(日)10:40~  仙台北教会

 

「教会の出発-その豊かさと罪」

使徒言行録 4章32節~5章11節
申命記 33章1~5節

 

 使徒言行録においてここで初めて、32「信じた人々の群れ」が11「教会」(エクレシア)と呼ばれます。“召し出された者の群れ”との意味がそこにはあります。この源流は旧約聖書で 4「会衆」や「共同体全体」(民89等)と訳されるカーハールで、さらに辿ると“召集する(カーハル)”“声(コール)”との語源に至ります。 4「モーセ」が神の声に呼びかけられ指導者とされていったように(出34)、神の声が私たちを召し出し11「教会」を形づくらせるのです。

 11「教会」の歩みが始まったこの時、33「大きなめぐみ」と11「非常なおそれ」(ともに口語訳)が臨んだことが記されています。

 主を信じその喜びを生き分かち合うことにおいて32「心も思いも一つにし」ていったとき、32「持ち物」すら32「共有」するほどの信頼と支え合いが現実のものとなったのでした。

 主イエスは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われました(ルカ16:13)。「富」(マモン)は強力な力で、人を誘惑し屈服させ支配するからです。 1「アナニア」と 1「サフィラ」の出来事は、この誘惑に負けて神を欺いた罪の問題もまた教会の歩みの最初から起こったことを示しています。

 今日の教会は32「すべてを共有」とはしていませんが、主イエスを信じることにおいて信頼を交わし捧げ合うことで今もその働きを進めています。何もかもが金銭に置き換えられるような今日の社会にあって、真に大切なものは何かを見据え、生き、証しするその役割は小さくないことを思います。