「主に伴われてこの今を歩もう」

コリントの信徒への手紙 二 6章1~2節
イザヤ書 49章7~13節

 

 今日開いたⅡコリント622016年度宣教活動計画案の聖書箇所、説教題は主題です。

 ここでパウロはイザヤ498を引用し、B.C.538バビロン捕囚からの解放の時と彼の生きるA.D.54年頃を重ね合わせています。が、当時は戦争の兆しがあり、パウロ自身も投獄や異端の課題を抱えていました。今日も同様に、国内外の社会情勢もまた私たち一人一人も種々の課題を抱えています。そうした意味で、私たちは常に“途上”を歩んでいると言ってよいでしょう。

 いにしえの預言者は、歴史に働きかけ解放をもたらされた主のみ業に 8「恵みの時」 8「救いの日」を見ました。パウロは、悩みある歴史の只中へと降り立たれ途上を共に歩まれる主イエス・キリストの臨在にそれを見たのです。昼の聖書研究会は、12年半かかって新約の全書簡を読み終えました。その最後に、創造の昔から完成のその時までを導かれる主なる神の栄光に私たちは主イエス・キリストを通して与ることができると告げられていました(ユダ25)。これが私たちに与えられた福音にほかなりません。

 だから 1「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」と勧められています。 1「無駄に」とは “いたずらに” “目的なく” と訳せます。課題ある途上の今も私たちが派遣されてきた時であること、そして主にあって完成に結ばれていることを仰ぎつつ、大切に歩んでいきたく願います。

「神の笑い、人の笑い」

ヨナ書 1章1~3節
マタイによる福音書 14章25~31節

 

 2「ニネベ」はB.C.7世紀半ばまで数百年にわたってイスラエルを侵略し、ついには北王国を滅ぼしたアッシリア帝国の首都です。ですからこれに悔い改めを語れという主からの任務は、理解しがたいものでした。ヨナがこれを拒否して反対方向の 3「タルシシュ」に向かおうとしたのもわかります。

 しかし 3「主から逃れ」ることはできません。主が備えられた嵐の中でヨナは自分のしたことを白状させられ、海に投げ込まれます。11「わたし…を…海にほうり込むがよい」とは、観念の言葉とも最後の自己主張の言葉とも受け取れます。いずれにしてもヨナは、もはや死しか出口を見いだせなくなったのでした。

 ところがそのヨナに、主は驚くべき道を用意されました。 2:1「巨大な魚」に呑み込ませ、 2:1「三日三晩」の後、ヨナを出発点に立ち戻らせたのです。こうして彼はもう一度、与えられた使命を受けとめるチャンスを与えられました。

 直情的に行動するヨナを、しかし主は捨てることなく 4「大風」、異邦人(5節)、 2:1「巨大な魚」まで動員して導こうとされました。 2:1「魚の腹の中」でヨナはこのことに気づかされ、新たにされたのです。

 ヨナ書には主の笑いが感じられます。それは冷笑や嘲笑ではなく、小さな者を包む微笑みです。アブラハムとサラが言ったように(創216)、主はその笑いをもって私たちをも笑みへと導いてくださいます。

 このことは34章でも繰り返されます。主の大いなる笑いの中で、私たちはくり返し気づかされ、新たにされ、立ち戻らされていくのでしょう。

4月のおたより

 当教会の会堂の壁面は今、ご覧のように色とりどりな “らくがき !?” がなされた状態です。礼拝堂・教育館・牧師館の全壁面にわたっています。何ということでしょう。

 3月13日教会創立129周年記念礼拝に際してもお伝えしたように、当教会は、外壁防水工事をはじめ、大規模改修を計画していることによります。まず壁面の痛みを把握するためのマーキングが、この “らくがき” の正体です。

 でも教会メンバーの口には、この話題があまりのぼりません。いつも通う会堂ということで、どうもこのことに気づいておられない方もいらっしゃるようです。

 今月24日の教会総会において大規模改修について最終判断がなされ、可決されれば着工となります。と同時に、会堂改修特別献金が実施されます。

 当教会の歴史においても、大きな取り組みです。主を中心にして集う場、み旨を求め祝福に与る場として、教会堂が整えられ用いられゆくことを願い求めて、これに向かいたく思います。

「手を洗わない神」

マタイによる福音書 15章1~11節
創世記 2章4~7節

 

 創造物語によると、人は主なる神によって 6「水」を含んだ 7「土(アダマ)の塵」から創造されました。イメージとしては、神はその手で泥遊びをするように人を作られたということです。 “神の御手” はその力強い業を指し示すものとして、旧約聖書に200回以上現れます(出13316等)。

 その後、神は泥遊びをなさった手をどうなさったのでしょう。手を洗った、とは書かれていません。むしろ神は土人形に口づけをするように、 7「命の息を吹きいれられた」のでした。

 今日の新約の箇所等に示されるように、手を洗うとは汚れたものとの関係を断つという行為でした(マタイ2724)。神の御手は歴史を導く力強さを帯びると共に、私たちを捨てることなく支え続けるのです。そのために神はついに自ら悩みある世に降り立ち、小さな一人一人に近づかれ、手を洗うのではなくむしろ深い愛をもって私たちの汚れた足を洗われました(ヨハネ13章)。

 これらのことを受けとめるとき、 2「なぜ…手を洗」わないのかと迫るファリサイ派に対する主イエスの憤りを理解することができるでしょう。人11「から出て来るものが人を汚す」のであり、その汚れは私たちを憐み近づいてくださる神の御手のみが清め得るのです。我関せずと自ら関係を断ち、安全かつ聖なる領域に立ち留まろうとする傲慢を主は指摘されました。この主の鋭い指し示しは、今日の私たちにも及ぶものであることを思います。

「わたしの証人となる」

使徒言行録 1章6~11節
イザヤ書 52章7~12節

 

 主イエスの復活は弟子たちに希望を与え、立ち上がらせました。再び集まった彼らは 6「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と訊ねたとあります。地上のイスラエルが再興され、その成員となることを彼らはなお求めていました。

 が、主は 8「聖霊が降」り 8「あなたがたは…わたしの証人となる」と、むしろここから出発していくのだと言われました。神の祝福と平和に生きる道は 7・8・8「あなたがた」から始まって広まり、やがて 8「地の果てに至る」と、彼らの視線を広く世界へと向けさせたのでした。

 ここからキリスト教の歴史が始まり、その証しは私たちにまで至っています。主は私たちにも、平和の使者として出発しなさいと呼びかけておられます。

 11「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ」とは、捕囚の地バビロンからの出発を促した言葉です。それまでの生活を捨て 9「廃墟のエルサレム」を目指すのは不安なことでもありました。が、偶像のあふれるこの地から離れて新しい歩みへと踏み出せと預言者は呼びかけたのです。

 主は12「あなたたちの先を進み」12「しんがりを守」られると告げられています。私たちが踏み出すその歩みにも、復活の主が伴われています。