「あなたの名を呼ぶ」

ヨハネによる福音書 21章17~23節
イザヤ書 43章1~7節

 

 ヨハネ福音書の謎の一つは、主イエスの受難物語から現れる20「イエスの愛しておられた弟子」(13231926202217)とは誰なのかという点です。伝統的には使徒ヨハネであるとされますが、他の人物だとする説もあります。

 彼が登場する5回の内、4回はペトロと一緒です。かつて三度主を否んだペトロは(13381815~)、ここで主から三度17「わたしを愛しているか」17「わたしの羊を飼いなさい」と赦しと召しを受け、決意を新たにしたのです。その思いを込め19「わたしに従いなさい」との言葉に文字通り従って行こうとしたペトロは、同様に従ってきた彼に気づいて21「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と訊ねたのでした。

 彼らがその後どうなったのかは興味深いところですし、自らと他者を引き較べるのは私たち自身よくすることでもあります。実際、今日の箇所に暗示されているように、ペトロは殉教の死を遂げたのに対し(19節)20「愛しておられた弟子」はかなり長生きしたようです(23節)。でもこの時の主イエスの答は22「…あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と、ある意味厳しいものでした。

 私たちが辿る生はそれぞれ異なります。他者や環境からの不公正は正されなければなりませんが、私たちはそれぞれの生をしっかり生き抜くべく召されています。ペトロは殉教で閉じられる生をもって主を証しし、20「愛しておられた弟子」は高齢まで働いて証ししました。そして、それらの生は共に祝されていたのです。

 イザヤ43章で、主は 1「あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」と告げておられます。私たち一人一人は唯一無二のものとして覚えられ、その生はそれぞれ違いを湛えつつ尊く祝されているのだとの宣言です。

「何か食べるものがあるか」

 

 20章末尾を読んで感じるように、ヨハネ福音書は本来ここで完結していたのだと思われます。後につけ加えられたと考えられる21章は、主イエスの復活が限りある存在である私たちにどう関わるかを指し示しているように思います。

 3「わたしは漁に行く」 3「わたしたちも一緒に行こう」とつぶやく弟子たちの姿には、落胆や疲れのようなものを感じます。復活の主イエスに出会って(14節)希望と平和を分け与えられた筈なのに何故とも思いますが、振り返ってみればそれを持続できず時に失意に陥るのは私たち自身のあり様でもあります。

 しかしそのような時すでに、復活の主はそこに 4「立っておられた」のだと福音書は告げます(ルカ24:15)。そして主イエスは 5「何か食べる物があるか」と訊ねられました。そう、私たちが歩み続けるには日々の糧が必要です。

 そのための労苦を主イエスは見守り、恵みをもって導き、12「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招かれるのです。復活の主の臨在・支え・招きこそ私たちの日々の糧であり、そこから力与えられて新たな歩みへ出発できると告げられています。

 B.C.6世紀、亡国と捕囚にあってうなだれた民に遣わされた預言者エゼキエルは、神から 3「この巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ」と命じられました。恐る恐る口にすると、それは3「蜜のように甘かった」のでした。神の言葉はただ聞かれるにとどまらず、一人一人に食べられ、糧とされるべく語られています。一見苦く見えるその言葉(10節)も食べられ咀嚼されていくとき、日々を歩みゆくための豊かな糧となるのです。

 

ヨハネによる福音書 21章1~14節
エゼキエル書 2章8節~3章3節

 

「信じる者になりなさい」

ヨハネによる福音書 20章24~29節
コヘレトの言葉 11章1~5節

 

 主イエスが復活を遂げ弟子たちに現れられた場にいなかったトマスは、25「…手に釘の跡を見、この指を釘跡に…この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。このトマスは、私たちをはじめ後の時代の信仰者たちの代表でもあります。私たちも弟子たちのようなかたちで、復活の主に出会いはしないからです。

 彼のこれまでの発言を振り返るとき(1451116)、懐疑家というより生の価値を愚直に求めていた人物との印象を持ちます。そのトマスに自らを現された復活の主は27「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と呼びかけられ、トマスは28「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を言い表したのでした。

 彼は主の傷跡に証拠を見出したのではなく、世のために十字架を負われた主イエスの犠牲と自らへの招きを見たのです。この福音書が記してきた「しるし」(21145462149161217)も驚きによって神を指し示すものではなく、主イエスが世と生ける者を祝福へと招き帰すべくその業と命を注ぎ出されたわざであり、その先に十字架があったのでした。ここからトマスは信じて他者のために生きる道へと導かれ、インドまで伝道しそこで殉教したとの伝説が残っています。

 今日併せて開いたコヘレトの言葉も、私たちの生が 5「神の業」の内に置かれていることを信じ、恵みを 2「分かち合」いゆく生への招きです。

1月のおたより

「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。

しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」

イザヤ書 60章2節

 

 2016年最初の祈祷会1月6日(水)は、ちょうどエピファニー(公現日)の日となりました。

 私たちプロテスタントを含む西方教会では“東方の占星術の学者が降誕の主イエスを来訪した日”との意味を持っていますが、正教会では“主イエスが洗礼を受けられた日”、アルメニアやエチオピアの教会では“降誕日”として守られています。これは、意味づけが歴史の中で遷り変わってきたことによります。でも、主イエスの栄光が世に顕わされたことを記念する、との意義は共通しています。

 エピファニーとの語は、エピ(上から)+ファニー(現れる)とのギリシャ語から成り立っています。B.C.6世紀、バビロン捕囚からの帰還を遂げながらも荒廃の中で希望を見い出せず呻いていた民に、光は上から来ると預言者は告げました。爆撃とテロリズム、断交と対立の激化、核実験…と2016年も深い憂いを抱えています。そのような中、希望は私たちの中からではなく、世界を在らしめ私たちを生かしめているものから来ると預言者が語ったことを心に留め、なお希望と歩む力を分け与えられたく願います。この年に、主の平和が実りますように。

「なぜ泣いているのか」

ヨハネによる福音書 20章11~18節
エジプト記 12章37~42節

 

 1「マグダラのマリア」はガリラヤで主イエスに「七つの悪霊を追い出して」(ルカ82)頂いて以来、ずっと主イエスに同行し従ってきました(1925等)。が、その主イエスは十字架上で殺されてしまったのです。男の弟子たちが10「帰って」いった後も、マリアは諦めきれず11「墓」を見つめて泣き続けていました。

 そのマリアに、繰り返し語りかける声がありました。13・15「なぜ泣いているのか」とは理由を問うているのではなく、もう泣かなくとも良いのだとの語りかけです。復活の主イエスが背後に立たれたからです。でもそのことに目を開かれるためには、墓という過去の方向から向き直る必要がありました。主イエスの語りかけによって、マリアは徐々に14・16「振り向」いていったのでした。17「すがりつくのはよしなさい」との言葉には、復活の主が生きた働きへと向かわれること、そしてマリアも新たな出発へと向かうべきことが指し示されていましょう。

 イスラエルの民が長い奴隷生活からついに出エジプトを果たした際の記述に、37「ラメセスからスコトに向けて出発した」とあります。ファラオの名を冠した37「ラメセス」はイスラエル人の抑留地の名であり、37「スコト」は地名ですが興味深いことにその後民が40年にわたって経験した“仮庵”(テント)という意味です(創33:17)。出エジプトという救いの出来事は、定住の奴隷生活から約束の地目指した旅路に出ることでした。そしてその旅路を主は42「寝ずの番」、すなわちその大いなるまなざしをもって見守られたのです。

 私たちもそれぞれに与えられた旅路を、主イエスのみ守りと同行のもとしっかり踏みしめ進み行くことが求められています。

新年礼拝 「向こう岸に渡ろう」

ルカによる福音書 8章22~25節
詩編 50編1~15

 

 キリスト教諸教派の一致・宣教協力を進める世界的組織、世界教会協議会(WCC)のロゴは今日の聖書箇所に由来しています。oikoumeneとは“世界・その全住民”を意味するギリシャ語で、すべての被造物を癒すべく今も働かれるキリストと共に教会は世界へと漕ぎ出すことを指し示しています。

 ある日、主イエスは22「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに呼びかけ、ガリラヤ湖に漕ぎ出されました。ところが、吹き下ろす突風に舟は大きく揺らぎ出したのです。もと漁師として、この湖のことを知り尽くしたはずのペトロ・ヤコブ・ヨハネらの知恵も力も役に立たず、弟子たちは眠っておられた主イエスを揺り起して助けを求めました。主イエスが御力と権威をもって風と荒波を叱ると、たちまち嵐は止んだのでした。

 25「あなたたちの信仰はどこにあるのか」とは常に動じずにいろということではなく、私が共にいることを忘れるなということでしょう。WCCの英文サイトで、“このロゴは、主イエスの弟子たちに対するcallingの物語に由来する”とありました。助けてくださいと主イエスの名を呼んだのは弟子たちですが、主イエスはそうした弱い者をも22「向こう岸に渡ろう」と召されるのです。

 世界は時に波立ち荒れたとしても、神の創造と御手の内にあります(詩50編)。そして神の国という22「向こう岸」まで、主イエスは私たちを召してその中を漕いで行かれるがゆえに恐れることはないのです。