「わたしの正義は近い」

イザヤ書 51章4~11節
フィリピの信徒への手紙 4章4~9節

 

 教会暦の1年はアドベントから始まります。今日開いたイザヤ51章は、古来その第1主日に読まれてきました。

 これは約60年に及んだバビロン捕囚の末期に、第2イザヤが告げた預言です。あれほどの力を揮った新バビロニア帝国も今やペルシアの前に滅びようとし、捕囚からの解放が近づいていました。が、民は恐れとたじろぎの中にありました。支配はあまりに長く、11「シオン」(=エルサレム)を知らない人も多かったのです。加えて、その地は荒廃の中にあるとの話も伝わっていました。

 歩み出す力を失った民に、預言者は 9「奮い立て、奮い立て」と重ねて告げました(5117521)。ほとんどの節に「わたし」と繰り返されています。 4「教え」 5「救い」 6「恵みの業」をもたらし、希望への10「道を開」かれるのは主ご自身であるからです。この主が今や大いなる 9「御腕」を振るおうとされている、このことこそ私たちが新たに出発する力だと預言者は語ったのでした。

 フィリピ書簡は、獄中に捕らわれたパウロが書いたものです。にもかかわらず、この 4「喜び」と 4「平和」のトーンはどういうことでしょう。第2イザヤが 5「わたしの正義は近」いと告げたように、パウロも 5「主はすぐ近くにおられます」と書いています。私たちを生かし、支え、導かれる主が生きて働いておられることを仰ぐとき、私たちに新たな希望と力が分け与えられるのです。

「血と水とが流れ出た」

ヨハネによる福音書 19章31~37節
エレミヤ書 31章31~34節

 

 主イエスは世に救いの道を拓くためその愛を注ぎ出し、十字架へと進まれました。30「成し遂げられた」との言葉が示すように、十字架上で釘づけられたこのの死こそ神の栄光の成就だったのです(122324174)。

 ヨハネ福音書は、主イエスの遺体を取り降ろす際に兵士が槍でそのわき腹を突き刺すと34「血と水とが流れ出た」と記します。これはⅠヨハネの言葉、「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです」(56)と一致します。34「水」は主イエスが洗礼を受けてその宣教を始められたことを(マルコ19)、34「血」は「世の罪を取り除く神の小羊」(129)となって犠牲となられたことを指し示していましょう。かつて「わたしを信じる者は…生きた水が川となって流れ出るようになる」(738)と語られていたことを思い起こします。世にある私たちが新しい命に生きるために、この方は天から地にさらには死へと降られたのです。

 エレミヤは自らが預言した通り罪の裁きとして亡国を味わった民に対し、回復の約束を語り(301~)、34「主を知」る思いが一人一人の33「心」に記される全く31「新しい契約」が結ばれる時がいつの日か来ると告げました。主イエスの受肉と十字架によって神の御名が顕わされ(176)、その愛が分かたれたこの時にこそその約束は成就したのです。“新約”と言われるゆえんです。

「一つになるため」

ヨハネによる福音書 17章14~26節
創世記 12章1~4節

 

 8月末から味わってきた、主イエスの訣別説教(1416章)と大祭司の祈り(17章)もいよいよ末尾となりました。 6「わたしは御名を現しました」と主イエスは祈られました。受肉と十字架において、世を何としてでも救うとの神の意思が明かされようとしているからです。そしてこのことを 8「知り」 8「信じ」る者が起こされ、希望と13「喜び」が分け与えられていくのです。

 しかし14「世」はなお神の働きかけを理解せず、抗います。そうした中、信じる者は主イエスと共に働くべく18「世に遣わ」されるのだと告げられています。

 そして祈り末尾において、この働きのゴールが指し示されています。それは21「世」も26「御名」すなわち神の意志を受けとめ、ついには22「一つにな」って平和と喜びを分かち合うようになることです。

 2「わたしは…あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」と告げられたように、このことは神が信仰の父祖アブラハムと契約を結ばれた最初から、指し示されていたことでもありました。ここから始まった神の示す地を目指したアブラハムの旅は歴史を越えて受け継がれ、今を生きる私たちにまで及んでいるのだとも言えましょう。

 復活の主イエスは神の意思が世に成るべく、今も働いておられます。神の民はこの主と共に、神の国を目指す旅路を歩みます。

11月のおたより

 過日、「ごめんください」と教会にお客さまがありました。出てみると、「向かいの南公園から教会をスケッチしたのですが、この作品を展示会に出してもよいでしょうか」とのことでした。建築パースをお仕事とされている金伸之(コンノブユキ)さんという方で、趣味でも“街角ノスタルジー”と称して仙台の様々な風景を描いておられるとのことでした。

 当教会のスケッチは、公園にある巨石と会堂のコントラストが印象的な、透明感あふれる作品です。この作品は「第9回東北の建築を描く展」(主催:東北工業大学工学部建築学科)で入選され、先日、仙台メディアテークに展示されました。また、街中のギャラリーでも他の教会スケッチと共に展示されました。なかなか素適な作品展でした。

 金さんにはぜひ教区センターエマオのギャラリーでも展示会を、とお願いしてあります。いずれチャンスがあれば、とのお答を頂いていますので、実現するかもしれません。

 ご活躍をお祈りしたく思います。

収穫感謝合同礼拝 「わたしは見張っている」

エレミヤ書 1章11~19節

 

 11月に入り、教会前庭のもみじが美しく紅葉しています。そして今日午後はバザーなので、あちこちでいろんな匂いがしています。そんなふうに私たちは、日々いろんな変化に触れて過ごしています。

 エレミヤはB.C.7世紀、大国の狭間で翻弄される南王国ユダで預言者として召されました。 6「わたしは若者にすぎません」とエレミヤは尻込みしましたが、主はわたしが 5「あなたを聖別し…立てた」のだとこれを拒むことを許されませんでした。

 悩むエレミヤは日常の二つの光景に出合ったことで、ついにこの大任を受けとめていくことになりました。まず春の兆しを告げる11「アーモンドの枝」を見たことであり、次いで傾いた13「煮えたぎる鍋」を見たことでした。彼は11「アーモンド」を通して主が歴史をそして私をも12「見張っている」ことを、傾いた13「鍋」を通してやがて北から大きな脅威が訪れることを知らされたのでした。ここからエレミヤは、主こそが歴史を支え導かれることを語り続ける預言者として苦難と共に立っていきました。

 45世紀の教父アウグスティヌスは、“取って読め”との子どもたちの歌声に聖書を開いて主の呼びかけを見いだし、回心を遂げたといいます。日々接する小さな出来事にも、私たちに対する主のまなざしと呼びかけがあることを知ります。

召天者記念礼拝 「主イエスの命に連なる」

ヨハネによる福音書 15章11~17節
詩編 1編1~6節

 

 12「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(新改訳)と揮毫され教育館に掲げられている額は、以前に卒園児のお祖母ちゃんから頂いたものです。

 主イエスは自らを拒み続ける世に愛をもって臨み、ついには自らを与えられたことをヨハネ福音書は強調し(316等)、この愛に連なる者となりなさいと告げます。私たちもそうありたいと願いつつ、続く13「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」との言葉にたじろぐのではないでしょうか。

 ここの13「捨てる」を直訳すると、“置く”“横たえる”となります。主イエスは私たちが真に生きるべく、ご自身の命をついには十字架に置かれたのでした。では、あなたがたはどこに命を置くのか、と問われています。ただ一度分け与えられた大切な命です。それを私たちは自己満足に置くのでしょうか、あるいはより価値あることに置くのでしょうか(1225)。主イエスはここで、他者と分かち合うことに命を置くことの意味深さを指し示されたのです。

 そのような生き方を求める者は 3「流れのほとりに植えられた木」のように、不思議に恵みと豊かさを汲み続けると歌われています。今日記念している方々は、そのように与えられた日々を生き、命を横たえられたお一人お一人です。