宮城北地区の日交換講壇礼拝 「平和の共同体の心得『非暴力』」

ヨハネによる福音書 18111
ヨシュア記 8章1~2節

 説教  小野寺 清栄 牧師 (気仙沼集会所)

 

 ヨシュア記は、神の指示で殺人や略奪を含む暴力を用いてカナンの地を占領していく歴史的記述であるとも読めます。ユダヤ教やキリスト教が正典とし、イスラム教でも重要な書としている聖書になぜこのような記述があるのかという疑問が否応なしに湧いてきます。

 しかし、ヨシュア記には神の箱が出てきます。神の箱には汝殺すなかれ、盗むなかれなどと書かれた律法の大元の十戒が入っています。そして、律法を一つ残らず、イスラエルの全会衆、女、子ども、彼らの間で生活する寄留者の前で読み上げた(8:35)、とあります。

 新約聖書になるとイエスは非暴力を訴えていきます。本日の箇所では、ペトロが剣でイエスを捕まえようとしに来た大祭司の手下の耳を切り落としてしまった時イエスは諫めます。11「剣をさやに納めなさい」と。

 非暴力、これは十戒をみれば明らかですし、イエスの活動、特に十字架から考えると“非暴力”が神の意志とも思えます。放っておくと暴力に走ってしまうのが人間なのでしょうか?だとすれば、十戒を始めとする神のことばが生きるために必要なのかもしれません。“非暴力”も私たちの平和な共同体を作るために必要な神の言葉だと思っています。

「御名を現しました」

ヨハネによる福音書 17章1~11節
出エジプト記 3章13~14節

 

 “大工と鬼六” “ルンペルシュティルツヒェン” など、名前を言い当てると悪鬼は退散するとの昔話は世界中にあります。名前とは、人格を表すものだからです。震災後の今をテーマとした今年の地区信徒交流会で発題された当教会員C姉は、ハリーポッターシリーズの中で人々が恐ろしさのため口にしなくなった闇の魔法使いのその名を主人公がはっきりと呼んで倒していったことに触れ、得体の知れない力で迫る放射能のその名をはっきり口にして立ち向かいたいと語られました。

 旧約の時代、神の名はなかなか明かされることはありませんでした(創3230等)。召命を受けたモーセがその名を求めた時、神は14「わたしはある。私はあるという者だ。」と謎めいた仕方でご自身を呼ばれたのでした。これは誰よりも先にある者、あるいはすべてを創造しあらしめる者といった意味であると考えられます。

 訣別説教に続く“大祭司の祈り”において、主イエスは 6「わたしは御名を現しました」と祈られました。14「わたしはある」と宣言される方が人となり十字架へと降られた主イエス・キリストにおいて、神のご人格は世に明かされたのです。ゆえに 3「永遠の命とは、…まことの神とイエス・キリストを知ることです」と告げられています。

 本日は “平和” をテーマにコイノニア会(修養会)が開かれます。聖書の告げる “平和(シャローム)” とは、神の大いなる祝福に満ちた豊かなあり様のことです。これを仰ぎ、この祝福を破る戦争に抗して今を歩みましょう。

10月のおたより

 当教会の礼拝で歌う賛美歌は、1997年に刊行された「讃美歌21」に収録された曲を主に用いています。そのほかにも、日本の教会では「讃美歌」(1954年)・「讃美歌第二編」(1967年)・「聖歌」(1958年)などの賛美歌集が用いられています。

 歌集としてまとめられている以外にも、賛美歌はいろんなかたちで生まれています。最近、当教会の教会学校では、若いメンバーの意見もあってゴスペル・ソングを礼拝に取り入れるようになりました。楽しいリズムで歌いやすい曲が多いですね。

 「これもさんびかネットワーク」(略称「これさん」)という、みんなで賛美歌を作って共有しようとの集まりも発足しています。これまでの讃美歌集になかった意欲的な作品が多いことが特徴で、発足以降11年間で200を超える新しい賛美歌が生まれました。サイトでは、一部の曲が公開されています(http://ichurch.me/kore3net/)。また、昨年はCDが作成されました。

 今年の当教会バザー合唱では、「これさん」から生まれた賛美歌も1曲歌うことになりました。ハーモニーがなかなか手ごわくて大変ですが、お楽しみにお待ちください。なかなかすてきな曲ですよ。

「主イエスの名によって立ち向かう」

ヨハネによる福音書 16章25~33節
サムエル記上 17章41~47節

 

 少年ダビデは45「主の名によって」、巨人ゴリアトに立ち向かいました。45「主の名」は神の意思を表わします。ダビデの力の源泉は、小さい者を守られる36「生ける神」への信頼でした。

 私たちは“主イエス・キリストの御名によって”祈ります。それは、主イエスが代わって祈りを届けてくれるということではありません(26節)。主イエスの十字架の犠牲によって人と神との和解が成り、神を「アッバ、父よ」(ローマ815)と呼ぶことができるようになったからです。祈りは、愛する子である主イエスと私たちの言わば連名で父なる神のもとに届くのだ、と教えられています(27節)。

 主イエスのみ旨がこの世に成り、神の意志と人の祈りが一つとされるのは神が約束された完成の時です。それまで私たちは33「世」にあって、課題や33「苦難」をも経験します。主イエスが表された32「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる」との信頼は、私たちにも分け与えられています。課題・33「苦難」が残っても、主イエスは十字架の愛をもって33「既に世に勝」たれたのです。私たちはこの神の意志、主イエスの名によって完成のその時を仰ぎつつ、今を歩みます。

世界聖餐日礼拝 「しばらくすると」

ヨハネによる福音書 16章16~24節
エレミヤ書 32章6~15節

 

 “しばらく”とはどの位の長さなのかは、人によってまちまちかもしれません。今日の個所で実に7回繰り返されている16「しばらくすると」の原語は“ミクロン”、1000分の1ミリを表す単位の語源となった言葉です。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のよう」(Ⅰペトロ38)との言葉を思い起こします。

 何を指して主イエスは、16「しばらくすると」と言われたのでしょうか。直接には、直後の十字架の死と復活を指していましょう。希望の主を失い20「悲嘆に暮れる」が、20「その悲しみは喜びに変わる」22「その喜びを…奪い去る者はいない」と主は予告されました。

 これらの言葉は、時代を越えて私たちにも告げられています。16「しばらくすると」与えられる20「喜び」とは、すべてを 8「明らかにする」聖霊の伴いでもあり、ついに13「真理」が世を覆う完成の時でもあります。

 自らが預言したとおり南王国ユダが滅亡しようとしているとき、エレミヤは主の言葉に導かれてエルサレム近郊の町アナトトの土地を買い取りました。いくら10「証書」を作っても効力は見込めない危機的状況にも拘らず、彼は正式に手続きをしたのでした。それはいつの日か、必ず復興する時が来るとの主の約束を表していました。

 私たちが時を計るのとは別に、主は歴史を御手に治めこれを導かれます。この主の伴いと約束のゆえに、私たちは20「喜び」つつ今を歩み得ます。