「愛するが故に」

ヨハネによる福音書 15章18~27節
エレミヤ書 26章1~11節

 スペイン内戦(1936-1939)とフランコ独裁政権(1939-1969)の時代、この国出身のパブロ・ピカソとパブロ・カザルスはそれぞれの表現を通してファシズムと戦った芸術家として知られます。ピカソは、フランコに味方するナチス・ドイツが1937年地方都市ゲルニカを無差別爆撃したことに対し、大作“ゲルニカ”を描いて不条理と悲劇を訴えました。カザルスは、フランコ政権を諸国が容認したことに抗議し自らのチェロ公開演奏を長い間拒否し続けました。

 18「世」の憎しみを受け十字架へ挙げられることを決意しておられた主イエスは、従う者たちもまた時に20「迫害」を受けることを予告されました。この福音書において18「世」は、神を認めずその働きかけを拒み続けるものとされています(11011等)。にも拘わらず神はこれを愛し続け、イエス・キリストとして世の只中に降り立ち、ついにはその命をも分け与えるのです(316)。その主イエスを18「世」はなぜ憎むのか、それはその真実が18「世」の偽善性・罪をも照らし出すからです(31920)。

 主なる神の導きを忘れて迷走する南王国への裁きの言葉を主から託されエレミヤが語った時、これに激しく反駁したのは11「高官たち」でも11「民」でもなく11「祭司と預言者たち」であったのです。神礼拝すら人間の偽善に染まるその憂いの深さを、預言者エレミヤは見据えて語り続けました(7115)。憂いがいかに深くとも、主の真実は歴史を越えて愛する民を導き出されることを仰いでいたからです。

 私たちが歩む18「世」にも多くの憂いが見えます。と共に信仰者は、その18「世」がそれをも覆う愛を頂いていることを見、み業に参与することを目指すのです。

「わたしがあなたがたを選んだ」

ヨハネによる福音書 15章1~17節
エレミヤ書 1章4~8節

 

 エレミヤはB.C.76世紀、大国アッシリア・エジプト・新バビロニアの圧力に翻弄される南王国ユダで活動した預言者です。彼が語るべく主から預かったのは歩むべき道を見失った王国に対する裁きの言葉であり、それゆえに彼は死に至るまで迫害と苦難の生涯を送りました。が、神の言葉こそついに成ることを信頼して歴史を見通したその預言は、こうして語り継がれてきました。

 弱冠20歳位のとき、エレミヤは主に召されました。 6「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」と尻込みする彼に、主は 5「母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、…預言者として立てた」と告げたのです。207~でエレミヤは、私が語るのは私自身主の言葉に捕らえられているからだと述べています。

 主イエスはぶどうを例えに主とつながっていることこそ豊かな実りへの道であると告げた上で、16「あなたがたが私を選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言われました。私たちは自ら選んで生まれてきたのではないのですから、命そのものが選びであるとも言えます。そして命は私たちに与えられた最大の贈り物(gabe)であると共に、どう生き行くかと与えられた課題・使命(aufgabe)です。命を与え、伴い、導かれる方を仰ぎつつ、与えられた選びに応え行く歩みを志したく思います。

9月のおたより

 「今年のバザーはいつですか?」とのお問い合わせを頂くようになりました。教会バザーは、今年も11月第2週、8日(日)に開催されます。まだ委員会開催前なので、正式に時間が決まっていませんが、ここ例年にならって13001445の開催になると思います。

 すでに手作り品の作業会、ミニシアターで発表する合唱の練習、販売提供品の受付が始まりました。そのほか、手作りケーキ・教会員栽培の野菜・石巻の海産物などの販売、やきそば・フランクフルト・おでん・わたあめなどの出店が予定されています。

 特徴のひとつ目は、地域の方・幼稚園の卒園児や保護者・近隣の教会の皆さんなど多くの顔が集まり、教会が楽しい広場のようになることです。ふたつ目は、おとなだけではなく子どもたちもお手伝いに参加すること。みっつ目は、売り上げの全額が福祉施設や国際活動支援などにすべて捧げられますから、バザーで楽しむことがそのままチャリティ活動参加となることです。

 これだけ大きな行事なので、準備は結構たいへんです。でも、みんながうれしく集い、意義ある活動だからこそ、みんなが力を合わせます。そんなバザー、当日をお楽しみに。

「わたしの平和を与える」

ヨハネによる福音書 14章25~31節
エレミヤ書 6章13~19節

 

 27「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」との主イエスの言葉には、「平和」もその内実が吟味されねばならないとの含蓄がありましょう。

 参院で審議中の安全保障関連法案が、今週にも採決、成立するのではとの危惧があります。集団的自衛権を容認し他国の軍事行動への自衛隊の合流・武力行使に道を開くこの法案は “国際平和支援法” “平和安全法制整備法” と名づけられていますが、この “平和” は “日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する” との日本国憲法前文の “平和” と果たして同じと言い得るのでしょうか。

 B.C.7世紀、北ではアッシリアの滅亡、新バビロニアの台頭、南ではエジプトの支配という激動にあっても政治的に立ち回れると楽観して主のみ旨を顧みようとしなかった南王国ユダの指導者たちのあり様を、預言者エレミヤは14  「彼らは…平和がないのに『平和、平和』と言う」と厳しく批判し、その道は亡国という裁きへと至ると告げました。そのため彼は厳しい弾圧を受けましたが、その預言はB.C.587年南王国の滅亡という形で現実のものとなったのです。

 1~2世紀の地中海世界は比較的穏やかな時代であったと、パクス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれます。しかしその内実はローマ帝国の強力な覇権による安定であり、そこには支配されている多くの民がいたのでした。

 主イエスは自らを犠牲とする十字架によって、悩みある世を神の確固たる祝福へと結びつけ、その平和へとすべての者を招かれます(エフェソ2:14~)。その招きから洩れる者はありません。

 預言者エレミヤは8:8~で、主の言葉を持っていてもそれを生きないならばそれは偽りでしかないと警告を発し、「平和」は語るだけではなく一人一人が生きるものだと告げています。私たちが心に留めるべき言葉だと思います。

「あなたがたと共におり、あなたがたの内にいる」

ヨハネによる福音書 14章15~24節
創世記 28章10~22節

 

 誰も、他者の人生を代わって負うことはできません。イサクの息子ヤコブは狡猾に長子の権利を奪い取るなど、いわば独力で人生を切り開いていきました。しかしその代償のように恨みを買い、逃亡の旅に出ざるを得なくなったのです。荒野で独り野宿した夜ヤコブは、主が15「見よ、わたしはあなたと共にいる。…わたしは…決して見捨てない。」と呼びかける声を聞いたのでした。この私を見守る大いなるまなざしがある、この気づきはヤコブにとって大きな驚きでした(1617節)。その後も彼の性格は急に改まったわけではなく、その人生は波乱含みでした。が、この私に伴う方がおられるとの信仰は、確かに彼の人生を支え導いていったのです。

 十字架を前にした訣別説教において主イエスは16「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と告げ、主イエスが去った後神は聖霊として伴われることを約束してくださいました。16「弁護者(パラクレートス)」には、“傍らに呼ぶ”“慰める”との意味があります。私たちがそれぞれの人生をその完成まで歩み通す上で、これに伴走し痛み悲しみをも分かってくださる方があることは大きな力ではないでしょうか。

 17「この霊があなたがたと共におり…あなたがたの内にいる」との言葉は、この霊が神・キリストと信仰者を結ぶのみならず、隣人を共に生きる者として結び合わせることを指し示しています。

 このことは、信仰のまなざしにおいて仰ぎ得ることです(17・19節)。19「生きて」働かれる主イエスと共に、19「生き」る幸いがここにあります。