「わたしがそうなのです」

ヨハネによる福音書 9章1~12節
イザヤ書 35章1~10節

 

 2「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」、これは大震災発生以来、多くの人々そして私たちから発せられてきた“なぜ”との問いです。これに対し主イエスは 3「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と明確に述べられた上で、 3「神の業がこの人に現れるためである」と不思議な答をされました。

 まず、これはなんとも割り切れない答だと思います。当時のユダヤ社会でもそして今日にも見られるように 2「本人」だ 2「両親」だとしてしまえば、不承不承でも割り切れるかもしれません。でも主イエスは、そうなさいませんでした。そして次いで気づかされるのは、主イエスが過去を問うのではなく、未来を志向するところから答えられていることです。

 割り切ってああそうかと通り過ぎるのではなく、なお問いの前に佇むことの大切さが示されているように思います。生は過去からの因果律で支配されているわけではなく、人知を超える不思議さも起こり来るのです。それを生起させられる 3「神の業」を仰ぎ見ようと、主イエスは教えられました。

 彼は主イエスの業によって 7「見えるように」され、ファリサイ派の圧迫にあっても(2234節)神の業を顕わされた主イエスに従い証しし続けました(1730333539節)。 9「わたしがそうなのです」とは、主イエスが繰り返しご自身を顕わされたときの言葉と同じです(426635858等)。 3「神の業」は確かに 2「この人」に現れたことを知ります。そしてその業は今も働き、私たちを希望へと導くのです。

ペンテコステ礼拝 「真理がわれらを自由にする」

ヨハネによる福音書 8章31~38節
イザヤ書 61章1~4節

 

 国立国会図書館東京本館のホールには、“真理がわれらを自由にする”との言葉が刻まれています。国立国会図書館法の前文にもこの言葉があります。これが主イエスの語られた32節に由来することは、そのギリシャ語原文も横に刻まれていることに明らかです。参院図書館運営委員長を務めた羽仁五郎氏が、かつてドイツ留学中に見た大学の銘文から取り入れたといいます。氏は“今日のわが国民の悲惨の現状は、従来の日本の政治が真理にもとづかないで、虚偽に立脚していたからである”と、社会また政治も謙虚に真理を希求すべきことを論じています。

 主イエスの言葉がこうして広く大切なものとして覚えられていることを喜びながらも、そこにはなお受け止めの足りなさがあるように思います。31「わたしの言葉にとどまるならば」と主イエスが語られています。この32「真理」とは私たちが獲得したり保持したりできるものではなく、「打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を」(イザヤ611)与えるべく来られた主イエスにつながりその恵みと導きに生かされることなのです。

 ペンテコステの出来事を通し、神そして主イエスは聖霊というかたちで今も力強く働き、私たちの間にとどまってくださることを証ししてくださいました。この生きて働くみ旨に導かれ、与えられた日々を希望の内に歩みましょう。

「わたしもあなたを罪に定めない、行きなさい」

ヨハネによる福音書 8章1~11節
イザヤ書 42章18節~43章4節

 

 今日開いたヨハネ8111は〔 〕の中に入れられています。この箇所が重要な写本に欠けており、文体なども他の箇所とは異なることから、元々のヨハネ福音書にはなかったのだと考えられます。それでもこの箇所は、罪と赦しの問題が私たち自身に及ぶものであることを印象深く投げかけてきます。

 4「姦通」が石打ちの刑に相当するとの 5「律法」はレビ2010に存在しますが、ここでこの女性は何故か一人で連れてこられました。その判断を求められた主イエスは 8「身をかがめて地面に書き続けられ」、ただ一言 7「あなたがたの中で罪の犯したことのない者が、まず…石を投げなさい」と言われたのです。沈黙が支配する中、すると 9「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去っ」たのでした。他者を裁き得ない罪が拭いがたくあることを、自覚させられたのでしょう。

 川端純四郎兄はある講演で、この箇所が受洗のきっかけの一つだったと語っておられます。そしてドイツ留学に際しインドの孤児たちに触れたこと、家族を日本軍に虐殺された中国人留学生に出会ったことから、自らの罪が歴史と社会の深さを抱えるものであることに目を開かれたのだといいます。重い問いかけを含むこの講演録を読んでいて、続いて紹介されているエピソードに何か救われるような印象を受けます。ドイツで最初に迎えたクリスマスイブに、兄は貧しいドイツ人夫妻の食卓に招待されました。寂しい日本人留学生を慰めてやろうと声をかけてくれたこの夫妻に兄は癒しを与えられ、自らにもなし得る何かを指し示されたのでした。

 主イエスは女性に11「わたしもあなたを罪に定めない」と赦しを与えられると共に、11「行きなさい」と言われました。私たち一人一人も、権威ある方の罪の赦しを必要としています。自らの命をも十字架で犠牲と注ぎ出されたこの方にこそ、その権威はあります。でも私たちの罪が私以外の広がりを含むものならば、赦されて終わり、とはなり得ません。その後どのように生きるのかが問われましょう。主イエスは11「行きなさい」と、それぞれが赦しの恵みに応えゆく道を見いだし歩みゆくことを期待しておられます。

5月のおたより

 「平和七夕」の準備が始まりました。教会でも6~7月の毎週水曜日13:00~15:00、メンバーやご近所の方が集って、全国から送られてきた折鶴の糸通しやレイづくりを行います。

 今年は、ヒロシマ・ナガサキ被爆から70年、平和七夕が始まって40回目に当たります。このことを覚えて、下記の要領で「記念展」が開かれることになりました。被爆資料の展示・平和七夕のDVD上映・紙芝居の上演などなどです。毎年多くの人たちの思いと働きによって、平和七夕は続けられてきました。展示はこれらを体感する貴重な機会となるでしょう。

 もちろん仙台七夕会期中に行われる「平和七夕」にも、ぜひおいでください。

 

「被爆70年・平和七夕40回展」

日時  8月1~5日(土~水) 10:00~16:00

会場  仙台市福祉プラザ2F 展示室 (地下鉄五橋駅下車すぐ)

 

「第40回平和七夕」

日時  8月6~8日(木~土)

場所  クリスロード商店街 ジョリビル前 (ダイエーそば)

毎日14:00~、折鶴のレイが配られます

 

いずれも、主催は「『平和を祈る七夕』市民のつどい」です

 昨年の教会での作業風景

「生きた水が流れ出る」

ヨハネによる福音書 7章37~39節
エゼキエル書 47章1~12節

 

 仮庵祭の間、祭司がギホンの泉から黄金の水差しで水を汲み祭壇に注ぐという儀式が行われました。これは荒野の旅で民が神に潤されたことを記念すると共に(出176)、この神こそがついには世界全体を命の水で潤される究極の希望を仰ぐものでした。

 エゼキエル471~には、捕囚・亡国の時代の預言者に与えられた壮大な光景の描写があります。それは、破壊されたはずの神殿が壮麗に再建され、そこから滔々と水が湧き出で大河となるというものでした。その水は流域をきれいに再生し、いかなる生物をも拒んできた死海をも潤して10「魚」や12「果樹」が満ちる大いなる恵みのあり様を預言者は仰ぎ見たのです。

 人間の罪が痛恨の事故を引き起こし、恵みの地を汚染してしまった今日の事態を振り返る時、神から流れ出る命の水こそが再生への希望だとのメッセージは響きます。

 主イエスは、それは38「わたしを信じる」ことに始まると宣言されました。39「栄光」すなわちこの方の十字架の犠牲によって(1223等)命への再生の道が拓かれるからです。その人を潤した38「生きた水」はなお38「流れ出」て、憂いある世を再生するのだと語られています。そのとおり、主イエスに連なり、平和と希望のために労している働き人たちがあることに私たちも励まされ、力を分け与えられています。

「SOLI DEO GLORIA」

ヨハネによる福音書 7章14~24節
エレミヤ書 13章15~17節

 

 当教会礼拝堂バルコニー壁面に刻まれているSOLI DEO GLORIA とは、“ただ神にのみ栄光”との意味のラテン語であり、宗教改革の精神をあらわすものです。J.S.バッハは宗教曲の楽譜末尾に、この語を表すSDGの文字を書き込みました。

 主イエスは仮庵祭のときエルサレム神殿に現れられ、あなたは18「自分の栄光を求める」のか、それとも18「自分をお遣わしになった方の栄光を求める」のか、と人々に問われました。仮庵祭とはあえて粗末な小屋で7日間を過ごし、出エジプトの旅を神が導かれた恵みを思い起こそうとの祭でした。主イエスはこれを24「うわべ」に終わらせず、あなたの生き方を通して顕しなさいと教えられたのです。

 八重が語った思い出によると、新島襄はどうも音痴だったようです。礼拝でもその調子で歌っているので八重が注意すると、“神に向かって賛美しているのだ、人に向かって唱っているのではない”と平然と答えたといいます。

 自らの身体また生涯も、神から恵みとして遣わされた一つの器だと考えられます。私たちはこれを自らの満足や栄華のために用いることもできれば、意味ある何かのためにも用いることができるのです。

 ユダヤ教指導者層の敵意の中にあった(1節)主イエスにとって、都に現れることは危険なことでした。しかし18「お遣わしになった方の栄光」、この世に救いの礎を据えるとの神のみ旨を顕すために主イエスは十字架へと歩み出して行かれたのでした。